東京都美術館開館100周年記念【14回東京現展】王詮富〈八月閑步一色秋〉的季節哲學、門徑意識與水墨的開敞性 在黑暗中閑步:秋色如何不是顏色,而是一種存在的轉身 - 東京都美術館開館100周年記念【第14回東京現展】暗闇の中の閑歩:秋色はなぜ色ではなく、存在の転回なのか ——王詮富(ワン・チュエンフー)の〈八月閑歩一色秋〉における季節の哲学、敷居の意識、そして水墨の開け 文:王穆提(WANG MUTI)

暗闇の中の閑歩:秋色はなぜ色ではなく、存在の転回なのか

——王詮富(ワン・チュエンフー)の〈八月閑歩一色秋〉における季節の哲学、敷居の意識、そして水墨の開け

文:王穆提(WANG MUTI)

はじめに:八月はなぜすでに秋なのか?

人が本当に季節の変化を感じるのは、カレンダーのページをめくった瞬間ではなく、ある種の気配が突然変わった時である。光はもはやただ力強いだけでなく、色は収束し始め、音は遠くの空気に吸い込まれたかのようになり、かつて馴染み深かった道でさえ、言葉にできない影の層によって描き直されたかのように見える。その時、人はまだ「秋が来た」とは言いきれないかもしれないが、身体はすでに知っている。ある種の譲歩、ある種の静寂、ある種の光と影の交代が、ゆっくりと世界を引き継ぎつつあることを。

私の目に映る王詮富の〈八月閑歩一色秋〉は、まさにこの「まだ完全には到達していないが、すでにすべてを覆い尽くしている」状態についての作品である。タイトルの中で最も興味深いのは「秋」ではなく、「八月」と「閑歩(散策)」である。八月は本来まだ暑さを伴っているはずだが、絵の中ではすでに秋色に支配されている。閑歩は本来リラックスした歩みであるべきだが、画面の中では暗く、奥深く、精神的な密度すら帯びた空間へと足を踏み入れている。ゆえに、見れば見るほど、この作品は単に一本の小道、一つの庭、風景の片隅を描いたものではなく、より深い問い——季節が転回する際、人は暗闇の中からいかにして世界を再認識するのか——を扱っているのだと思えてくる。

写意は省略ではなく、世界にその語り尽くせぬ部分を残させることである

この作品でまず印象に残るのは、極めて媚びない見せ方である。画面は明るくなく、風景を完全に説明することもなく、鑑賞者に「名所」や「物語」を即座に認識させることもない。広範囲にわたる黒と灰色の墨が周囲から迫り、包み込むような影を形成している。中央からやや内側には、淡いピンク、赤褐色、そしてかすかな暖かな光を帯びた、比較的明るい道や通路が残されており、それは暮れ泥む地面のようでもあり、石畳や水気、壁面に残る夕陽のようでもある。中景には門、庭、開口部のようなものがあり、左側には植物や、あるいは壁の隅で増殖する記憶のテクスチャーのような、蔓や花の茂みにも似た細かい墨の線が見える。写真を横から見るようにこの絵を眺めると、絵巻物のような推移感が得られる。一方で、タイトルと構図に内在する経路の意識に沿って理解すれば、それは晩夏の終わりを歩く経験を、入り込めるが完全には見通せない視覚の場へと圧縮したかのようでもある。

このような写意(自由な筆致)は、技法的な省略ではなく、より高い次元での保留である。石濤(せきとう)はかつて「筆墨は時代に従うべきだ」と語ったが、真の「写意」とは、決して描く筆数を減らすことではなく、何を描きすぎてはならないかを知ることである。王詮富のこの作品の尊さは、風景が早急に定型化されることを拒み、それゆえに世界がその未完成な状態を保ち続けている点にある。壁は壁であるが、完全に壁らしく見える必要はない。花の影は花の影であるが、それは滲みでもあり、記憶でもあり、光と影と墨色が擦れ合って残した境界の痕跡でもある。したがって、鑑賞者は単なる識別する態度で見ることはできず、自らの感覚を、暗闇、ためらい、そして微光が共存する画面のリズムにゆっくりと入り込ませなければならない。

作品が哲学的な意味を持ち始めるのは、まさにここからである。世界を明確に説明するのではなく、世界にその多義性を保たせているのだ。人が真に世界と出会うのは、往々にして最もはっきりと見える時ではなく、このような半明半暗、半分見分けがつき、半分見分けがつかない状態にある時である。なぜなら、事物が完全に私の命名に属さない時のみ、それは真の他者として私に向かって開かれるからだ。

ハイデガー:道、開け、そして暗闇の中の顕現

もしこの作品の核となるイメージは何かと問われれば、私は、暗闇の中でゆっくりと切り開かれた一本の道だと答えるだろう。この道は単に前へと導いているのではなく、画面の中で光によって少しずつ召喚されているかのようだ。周囲の重厚な墨色は背景ではなく、道が成立するための条件を構成している。このような暗さがなければ道は現れず、包囲がなければ通過することに意味は生じない。

ハイデガーの「森の開け(Lichtung)」に関する思索は、この作品の内的構造をよく説明している。ハイデガーは、真理とは単に事物を正しく描写することではなく、事物を隠蔽から「開け」へと導き出すことであると考えた。世界は常に透明な状態で目の前に置かれているのではなく、常に顕現と隠蔽の間で揺れ動いている。〈八月閑歩一色秋〉はまさにこの意味において成立している。絵の中で最も明るい部分は全景ではなく、局所的に照らされた通路であり、最も深い黒墨も虚無ではなく、隠蔽そのものである。作品全体がこう語りかけているようだ。「秋とは、世界をよりはっきりと見せるものではなく、世界に別の方法で現れるようにさせるものである」と。

特に中央の、門、庭、または建物の奥深くを思わせる明暗のコントラストは、この作品を「通過」の経験として読まずにはいられないようにする。人は外部に立って風景を見ているのではなく、すでにその間を歩いているかのようだ。ここでの「閑歩」は、単なる散歩ではなく、より存在の状態に近い。私たちは目的地を急いでいるのではなく、歩く過程で周囲の明暗、寒暖、遠近によってゆっくりと変えられていく。ハイデガーはかつて、道は単に二点を結ぶ道具ではなく、真の道は人に世界にいかに住まうかを学ばせると語った。王詮富のこの秋の道もまた、単なる風景構成ではなく、世界内存在に対するメタファーなのである。人は歩き、歩くことそれ自体が、すでに季節と共にある一つの方法となっている。

ベンヤミン:敷居、黄昏、そしてアウラの残存

この作品のもう一つの極めて重要な層は、その強烈な「敷居」の感覚である。これは真昼の景色でもなく、純粋な夜景でもなく、晩夏と初秋、昼と夕闇、外部と内部の間にある状態である。画面の中の花の影、道、壁、そして奥にある建物や戸枠は皆、消えゆく直前で、まだ完全には消え去っていない時間の中に存在しているかのように見える。この時間は時計の時間ではなく、場所自身が持つ黄昏の時間である。

ヴァルター・ベンヤミンは「敷居」に対して鋭い感受性を持っていた。ベンヤミンにとって敷居とは、単なる境界線ではなく、最も経験の密度が高い場所であった。それは内と外、覚醒と夢、日常と神秘を繋ぐものである。〈八月閑歩一色秋〉はまさにそのような敷居的な作品である。鑑賞者が見ているのは完全な世界ではなく、過渡期にある世界である。終わってしまった秋ではなく、秋が八月を引き継ごうとしている、まさにその瞬間である。これにより、絵の中の黒は単なる黒ではなくなり、ピンクは単なるピンクではなくなり、赤褐色も単なる点描ではなく、「もうすぐ別の時間になろうとしている」という意味合いを帯びるようになる。

これはまた、作品にベンヤミン的なアウラ(Aura)に近いものを備えさせている。アウラとは、神秘的で捉えどころのないものではなく、事物が依然として距離を保ち、即座に消費され、見尽くされ、使い切られることを拒むような在り方のことである。今日、多くの絵画は景観を明確に説明しようと焦るあまり、すぐに見終わってしまう。しかし、王詮富のこの作品は違う。一目では判断できない空間を大量に残しているため、鑑賞者は立ち止まり、さらには自らの視線と呼吸を「閑歩」のように少し緩めざるを得ない。この遅さこそが、アウラが存在し得る条件なのだ。人は絵の前に立ち、それを即座に掌握するのではなく、少しずつ絵の方から近づいてくるのを待つのである。

バシュラール:家、片隅、そして秋色の内在的空間

私がこの作品において特に好んでいるのは、その「路地裏」あるいは「中庭の奥」に近いような気配である。画面は必ずしも明確な建物を具象的に描いているわけではないが、壁、門、通路、影、花の茂み、そして奥の微光といった構造が、ガストン・バシュラールによって読み解かれ得る空間をすでに形成している。バシュラールは『空間の詩学』の中で、家、片隅、扉、引き出し、軒下といった空間が心を打つのは、それらが機能を持っているからだけでなく、人間の内的経験と深く対応しているからだと繰り返し指摘している。それらは秘密、記憶、ためらい、孤独、そして夢を収容することができるからだ。

〈八月閑歩一色秋〉の中の空間は、まさにこの「内在化」の傾向を持っている。それは雄大な山水のように外へ無限に広がるのではなく、むしろ深みがあり、曲がり角があり、片隅があり、立ち止まる場所へと鑑賞者を導き入れるかのようだ。特に左側にある、花の茂みや蔓にも似た細かな墨の線は、中央の明るい道と内的・外的な呼応を形成し、絵全体に自然と住居の両方を持たせている。草木もあり、人の痕跡もある。ここは無人の荒野ではなく、かつて誰かが歩き、立ち止まり、あるいは今もその中をゆっくりと歩いている場所なのだ。

それゆえに、絵の中の秋はマクロな季節ではなく、身体に寄り添う秋である。高い空と遠くの木々の秋ではなく、壁の隅、地面、湿気、中庭の奥でゆっくりと発生する秋である。もしバシュラールがここにいたら、これは「秋の風景」ではなく、秋色が空間に入り込んだ後に形成される内在的な部屋である、と言うだろう。人が秋を見に行くのではなく、秋が静かに人の心の中に住み着くのである。これが、なぜ作品のタイトルが「八月観秋(八月に秋を観る)」ではなく「八月閑歩」なのかを説明している。なぜなら真の秋は、必ずしも見られる必要はなく、歩く中で感じられることの方がずっと多いからだ。

リクールと記憶:なぜこの道はかつて歩いたことがあるように見えるのか?

この作品の最も心を打つ部分の一つは、ある種の奇妙な親近感である。鑑賞者が実際に絵の中の場所に行ったことがなくても、まるで自分自身がかつてある夕暮れ、ある路地、ある中庭、あるいは花の影と壁の光が交差する小道で、似たような空気を経験したことがあるかのように感じやすい。この親近感は、写実性と同じではなく、むしろ具体的なディテールに対する作品の抑制から来ている。すべてを客観的な描写に固定していないため、記憶が入り込む余地が大きくなっているのである。

ポール・リクールが記憶について語る際、彼は特に、記憶とは複製ではなく、痕跡と再物語化を通じて新たに生成されるものであると強調した。〈八月閑歩一色秋〉はまさにそのような構造を備えている。それは特定の場所のようであるが、地図上で位置を特定できる場所ではない。ある一つの経験のようであるが、単一の物語の挿絵ではない。だからこそ、鑑賞者自身の生活経験が必然的に引き込まれるのだ。絵の中のあの道は、画家の道であると同時に、鑑賞者の心の中にある、かつて季節の境界線上で一人歩いたあの道でもある。

この記憶性が非常に重要である。それは作品を「美しい水墨画」から、生命経験を収容できる場へと引き上げる。真に成熟した芸術とは、作者の個人的な状況を閉じ込めるものではなく、他者の記憶も住み着くことができる形式を見つけ出すものである。王詮富はこの作品でまさにそれを成し遂げている。彼が描いたのは具体的な秋の道だが、最終的にはより普遍的な内的領域となった。人がその中で思い出すのは、彼の八月とは限らず、自分自身の八月かもしれないのだ。

水墨と秋:色を描写するのではなく、退場の方式を描写する

あえて言うなら、この作品の最も深いテーマは実は「秋色」ではなく、秋がいかにしてやって来るかである。ここでの秋は、大地を黄金色に染めたり、山を紅葉で満たしたりするような、伝統的で記号化された季節の指標ではない。むしろ、暗く、深く、ゆっくりとやって来る。それは飽和した色彩で自らを宣言するのではなく、黒が深まり、ピンクがくすみ、光が収束し、空間が内側へと折り畳まれることによって成立している。

これこそが、水墨画が最も扱うのに適した季節の哲学である。春が芽吹きに偏り、夏が充満に偏るなら、秋は収束、抑制、転回、退行により近い。水墨画が秋を描くのに特に適しているのは、それが事物の外見だけを描くのではなく、明所から暗所へ、喧騒から静寂へ、外向から内蔵へと、事物がいかにして退いていくかを描写できるからである。王詮富の墨の使い方は端正さを求めておらず、筆致、にじみ、擦れ、余白が呼吸や歩調に近いリズムを形成している。これにより、秋はもはや単なる色相ではなく、一種の退場(フェードアウト)の方式となる。突然消えるのではなく、ゆっくりと振り返り、去っていくのだ。

この意味において、タイトルにある「一色秋」という言葉は格別に素晴らしい。いわゆる「一色」とは、単一の色ではなく、全体的な包み込みである。画面の中のある一部分が秋に変わるのではなく、空間全体、空気全体、そして視点そのものが秋化されるのである。これは視覚よりも深い次元だ。秋を見るのではなく、秋に包まれるのである。

真の閑歩とは、歩くのが遅いことではなく、世界をゆっくりと入り込ませることである

もし〈八月閑歩一色秋〉に最後の判断を下すとするなら、私はこう言うだろう。この作品が真に扱っているのは、単なる風景や季節ではなく、人が歩きながらいかにして季節によって密かに書き換えられていくか、である。それが描き出しているのは客観的な秋の風景ではなく、暗闇の中で開かれる道の経験であり、自然の記録ではなく、存在の転回である。王詮富は墨を隠蔽であると同時に開けとし、道を空間の構造であると同時に精神の構造とし、八月を夏の延長ではなく秋の先触れとし、「閑歩」を漫然と歩くことではなく、身体を使って世界を読むことを再び学ぶこととしているのだ。

私は常々思う。真の閑歩とは、歩くのが遅いことではなく、目の前の光景を急いで説明しようとせず、暗闇が暗闇のままであることを許し、花の影が完全に明瞭でなくてもよしとし、道が局所的にしか明るくならないことを許容できることである。人がそのように歩くことができた時、初めて気づくのだ。秋は決して単なる一つの季節ではなく、それは世界を見るための一つの方法であると。ある種の光は暗闇の中でこそ真実味を帯び、ある種の道は不確実性の中を歩まなければ深く入り込めず、ある種の風景は人が急いでそれを所有しようとしなくなった時にのみ、真に人に向けて開かれるということを。

この作品を一言で要約するなら、こう言うだろう。王詮富の〈八月閑歩一色秋〉が描いているのは、秋の風景の一部ではなく、人が季節の境界線上で、いかにして世界から再び「ゆっくりと入っていく」ことを教わるか、その瞬間である。

要約:

王詮富の〈八月閑歩一色秋〉は、写意水墨の手法を用いて、晩夏と初秋、光と影、内部と外部の狭間にある敷居的な空間を構築している。この作品は明確な景物を描くことではなく、広範囲にわたる墨色の包囲と、局所的な赤褐色と微光の顕現によって、道、花の影、そして奥深くの建物が隠蔽の中から次第に浮かび上がるようにしている。ハイデガーの「開け」の概念を借りれば、絵の中の道は単なる空間構造ではなく、事物が暗闇の中から現れ出る存在の場所である。ベンヤミンの言う敷居とアウラもまた、その黄昏のような時間の密度と、即座に消費され得ない現前の感覚を理解する助けとなる。バシュラールの空間の詩学の観点から見れば、この作品は秋色を人が住まうことのできる内在的な空間へと変換しており、季節を単なる外的な景観にとどめず、壁の隅、花の影、地面、そして歩みが共同で構成する精神的な気候としている。全体として、〈八月閑歩一色秋〉が描写しているのは秋の風景そのものではなく、人が季節の転回の際、歩くことと体験することを通して、いかに世界に入っていくかを再び学ぶ過程である。