王穆提受邀日本第十三回東京現展,展場為東京都美術館
王穆提,《精神界》,寬度130cmx高度385cmx3,水墨紙本
這次的作品《精神界》引用了日本明治時代的思想家清澤滿之所出版的《精神界》的哲學雜誌作為標題。我個人大概十年以前曾經親自參訪過清澤滿之先生位在日本愛知縣碧南市西方寺的紀念館。
幾年以前曾經略作短文以示紀念清澤滿之先生。
很感謝日本的前輩們把我的作品放在展聽的大門口第一順位,我還需要不斷努力的學習。
〈清澤滿之是誰? 〉
華人佛教或多說人間佛教、人乘佛教、人生佛教等,泰半皆為日本所傳,特別是從明治維新後期諸多宗教師從批判佛教而進行宗教改革,近代如太虛大師等人亦受影響,又如同繪畫領域之嶺南畫派,其師祖乃日本繪師諸如竹內棲鳳等,只不過經由後期加工而逐漸忘記本師為何,此即忘師所傳又是忘恩,人類之精神領域本不分語言、區域,既忘其師,如何有德?略翻清澤滿之於日本語維基百科簡介與其清澤満之記念館之「精神主義」一文,並非贊同彼師著作,然彼等著作卻又實在的影響了華人佛教與基督宗教,故而略翻。《論語》說:「君子和而不同,小人同而不和。」我雖非君子,但亦願效顏、遊、路等,如是而已。而日本佛教於二戰當時又有反戰者,如竹中彰元法師直接在車站為出征的軍人說:「戰爭是罪惡的,也是人類的大敵,應放棄為宜」,因為如此,僧籍被降低至最低等級、也被當時日本陸軍刑法判刑有期徒刑四個月,緩刑三年,更有甚者,窮其一生在監獄中,只因不昧良知而已,此即為現代諸人難以為之之事,《論語集解義疏》又說:「人若非己祖考而祭之,是爲諂求幅也。義,謂所宜為也。見 所宜為之事而不為,是無勇敢也 。」既無勇敢 ,又何能稱菩提薩埵?
清澤滿之(1863年8月10日(文久3年6月26日)-1903年(明治36年)(明治36年)6月6日)是活躍在日本明治時期的真宗大谷派(本山・東本願寺)的僧侶,哲學家和宗教家。舊姓為「德永」。乳名是「滿之助」。法號為「信力院現釋誠」。真宗大學(現在的日本大谷大學)首任校監(校長)。
作為日本尾張藩士德永永則的後代,他出生在名古屋尾張國(現在的名古屋市)。進入英語學校和醫學院的學校不久後,學校被廢除,從而放棄了這一方面的選擇。他在英語方面是非常優秀的,並在愛知英語學校擔任翻譯(通譯)。並於淨土真宗本願寺派名古屋別院的醫學院只學了德語不久該校就廢除了。
一八七八年二月,他得度成為真宗大谷派的僧人,進入東本願寺育英教校就讀。當時對於跑步和相撲非常熱衷。作為那個留學生,知道東京大學預備門有補充招生,在短暫的準備時間裡以第一名的成績入學。1887年,他以第一名的成績從東京大學文學系哲學系畢業。同班同學中,後來成為日本教育部長的岡田良平、梅本順三郎和後輩上田萬年、澤柳政太郎分別是同輩和晚輩。他在學生時期與井上圓了等人開始了“哲學會”,並於1887年2月創刊了《哲學會雜誌》。同年,井上圓了創建哲學館(現在的東洋大學)時,他擔任評議員,並擔任心理學和哲學史的講師。在研究生院,他主修宗教哲學。但是,1888年7月,根據真宗大谷派的要求,他擔任了當時該派經營的京都府普通中學的校長,並與清澤靖子結婚後,成為了清澤姓氏。隨後,愛知縣碧南市的西方寺副住持去世。然而,即使他退學了,他也沒有放棄他的研究。
1890年7月,他辭去了京都縣一所普通中學的校長職務。從這個時候開始,他開始了被稱為極簡主義(Minimum Possible)的最低限度的自我戒欲生活。身穿黑衣黑色袈裟的僧服,在飯桌上用了飯是醃米飯的飯、而不是一般煮好的飯、不喝酒、甚至連茶都不喝,飲料則用了純開水或冷開水。在這樣的生活中,在學問方面也經常閱讀《嘆異抄》等,並在自戒生活的實踐中運用自己擅長的哲學,成為《宗教哲學骸骨》《他力門哲學骸骨試稿》寫成書。1892年8月出版的《宗教哲學骸骨》在1893年9月的芝加哥萬國宗教大會上被翻譯成英文而受到了好評。骸骨這個詞與這個時代的生活方式相吻合。
1894年,他患上了肺結核。同年1月,因禁慾生活體力下降的清澤在嚴寒的京都參加了前法主的葬禮,他一直站在室外。據說這就是導火索。1896年移民到京都府愛宕郡白川村(現在的京都市左京區)。開始白川黨的宗門改革運動。與今川角人(Kakujin Imakawa)和稻葉雅正(Masamaru Inaba)共同出版了《教界時言》,並提出並推動了各種改革,目的是在經常與官僚和教派對抗的東本願寺建立現代教育體系和組織,被宗門除名。
1898年被宗門除名。他強烈要求脫離保守勢力獨立,其中最大的轉捩點就是京都的真宗大學向東京遷移。1899年9月,在東京本鄉近角常觀留守處開設了私塾浩々洞,培養出了多田鼎、佐佐木月樵、曉烏敏等眾多真宗學者和佛教研究。1901年,他在浩浩洞創辦了雜誌《精神界》。同一年,東本願寺在巢鴨開設的真宗大學擔任校監(現在的日本大谷大學),在第二年辭職。
1903年(明治36年)6月6日,他的肺結核惡化,在改革的一半時間在西方寺去世,享年39歲。
清澤在生前曾受到鈴木大拙等人的高度評價,但在去世後長期被遺忘。清澤再次被發現是在戰後時期,1965年春天的《中央公論》4月號座談會在《選擇創造近代日本的100名宗教人士》(1970年)中被司馬遼太郎提及,1970年11月中央公論新社《日本名著》橋本峰雄在第43卷中介紹了他的著作。此時,有很多人詢問「清澤滿之是誰? 」。當時記者採訪擔任西方寺住持的清澤孫夫婦,他們會說:「我的祖父有這麼出色嗎?」他回答道。山本伸裕再次發現其著作並且命名為第二次再出版命名,之後他的全集於2002年 ~ 2003年和2012年發行,作為第三次恢復出版再次沐浴在光明中。
清澤影響了許多人,例如正岡子規、夏目漱石也受到其影響。清澤閱讀了因肺結核患上咳血的小行星7206的病床6尺後,發送了下面的信件。以下文章摘自正岡子規之後的病床六尺。
「讀完「病床六尺」呈現下面的數目。首先,在這種情況下,應該相信它與上帝或如來一起存在。第二,信不信由你,就讓它繼續下去吧,讓它痛苦吧,讓它繼續下去吧。讓天地萬物在我面前出現。號啕大哭吧,痛苦吧,痛苦吧,頓姓而死吧。我在垂死的邊緣,靠著第二個工夫,得到了精神的安靜。這是我的宗教救贖。」
夏目漱石和東京大學有很多交集,但是沒有直接的記錄。漱石通過熟人介紹了真宗大學的英語老師。在夏目漱石 的小說中,有一個人讓我想起了清澤先生,那是《我是貓》的八木獨仙,還有就是《早晨》的主人公 k。
根據山本伸裕的說法,清澤的工作對於在時代的濁流中迷失了自我帶著煩悶生活的近代日本人來說,藤村操(54歲)在《藤村操》中描寫的激發活生生的宗教心的同時,寫道:我們可以通過精心設計的手術,這是為了給那些被迫過著赤裸裸的「個體」生活的人們樹立一個精神立地的指南。他承認宗教書籍《嘆異抄》的價值,並且努力將其納入宗教倫理的普遍結構。
---
《精神主義》 清澤滿之
在我們這個世界上,必定有一個完整的立足點。若無其事,處世之事,行事之事,就如站在浮雲上表演藝術一樣,免於顛覆的能力,不要再等待言語了。然而,我們該如何獲得人生的完美立足點呢。無限者是在我們的精神裡呢,還是在我們的精神外呢。畢竟,他那絕對的無限者,與追求之人接觸的地方,內在也被限制,外在也被限制。我們只對這樣的無限者接觸,只能說在人世間有著完全立足之地的能力。而獲得這種立足點的精神發達的條路,稱之為精神主義。精神主義在自己的精神中尋求滿足,因此追求外物,追隨他人,不為煩悶而苦惱。而將外物追隨他人的形狀,絕不能為了自己家的不足而追隨。採取精神主義,自己是否會感到不足呢? 其充足應該向絕對無限者求之,而不應該向相對有限的人與物求之。然而,精神主義並不強烈地排斥外來的東西,而是相信,如果一個人對外來的東西採取行動,他不僅會為外來的東西感到痛苦,而且他的外來的東西可以隨心所欲地改變。因此,他所說的“隨其心淨則佛土淨” ,可以說是善於表白對精神主義外物的看法。另外,精神主義本著自己的精神是必要的,因此,它必然會偏向於外表或利己的一方面,排斥他人。然而,精神主義並不是為了自私,也不是為了貶低他人。不確立自己的立足點,先確立他人的立足點是不正當的,如果對自己的立足點確立了自己的立足點,那麼就相信可以將其轉移給別人。因此,如果與外物或他人交往,增進自己和他人的幸福,精神主義絕不排斥此事,反而歡迎之。因此,精神主義是隱遁主義,也是退化主義。通過共同和諧發展社會國家的福利,反而是精神主義的鼓勵之處。精神主義是完全的自由主義。若是被限制的事,那麼,一定要成為自限的自我綁縛,為了其他人而被限制。自己也有完全的自由,別人也有完全的自由,而且他的自由和他的自由沒有衝突,這就是精神主義的交際。而在正常情況下,他的自由、我的自由和不發生衝突的能力又有何區別呢。現在由於精神主義,所說的自由,是完全自由的,因此在任何情況下,總是與絕對服從平行,自由地改變自己的主張,與他人的自由和諧相處,決不會與他的自由發生衝突。
但是,在這樣的服從的情況下,需要最仔細的地方,沒有痛苦或痛苦。在這方面,唯心論具有一種目的,換句話說,唯心論是相信這是一種幻想,它源於每個人自己的妄想,並且充滿了痛苦。不,要說這而不是唯心論,我有同樣的能力承受外面的其他人的痛苦,而其他外面的人也沒有能力承受我的痛苦。因此,有時候我會遭受外界他人的行為的折磨,但出於精神主義的考慮,我認為我是因為自己的錯覺而受折磨,而且從來沒有在外面受到折磨。對一個人來說是痛苦的。 (即使它違背了這一點,您也應該知道。)因此,由於這種痛苦只不過是由於荒誕的妄想而產生的一種幻覺,隨著唯心主義實踐的發展,我的觀點受益匪淺。事實證明,他的痛苦逐漸減弱並消散了。
總而言之,精神主義是我們應付世界的實行主義,其首要目的在於相信在充分滿足的精神中所能尋求的東西。而其發動之處,乃追隨外物他人而不苦悶之處。為了增進人生的幸福,以完全的自由和絕對的服從為雙重目的消除這期間的一切苦難。
---
今回の作品《精神界》は、日本の明治時代の思想家、清澤満之が刊行した哲学雑誌『精神界』のタイトルを引用しています。私はおよそ十年前に、清澤満之先生が愛知県碧南市の西方寺に設立した記念館を直接訪問したことがあります。
数年前、清澤満之先生を記念して、簡単な文章を少し書いたこともあります。
日本の先輩方が私の作品を展示会の入口の一番目立つ位置に置いてくださったことに、心から感謝しております。まだまだ努力して学び続ける必要があると感じています。
〈清澤満之とは誰でしょうか。〉
華人仏教、あるいは人間仏教、人乗仏教、人生仏教などと呼ばれるものの多くは、日本から伝わったものであり、特に明治維新後期、多くの宗教師が仏教を批判し宗教改革を行った影響を受けています。近代では太虚大師などもその影響を受けています。絵画分野における嶺南画派も、日本の画師、例えば竹内栖鳳などの師を祖としていることが多いですが、後期の加工により本来の師を忘れることも少なくありません。これは恩を忘れることでもあり、人間の精神領域は言語や地域を問わないはずですが、師を忘れてしまえば、どうして徳を持つことができるでしょうか。ここでは日本語版ウィキペディアの清澤満之の概要や、清澤満之記念館の「精神主義」の記事を参考にしました。必ずしも彼の著作を支持するものではありませんが、その著作は確かに華人仏教やキリスト教に影響を与えましたので、概略を翻訳します。
論語には「君子は和して同ぜず、小人は同じて和せず」とあります。私は君子ではありませんが、顔、遊、路などに倣いたいと思います。それだけです。
また、日本の仏教には第二次世界大戦当時、反戦者もいました。例えば竹中彰元法師は、出征する兵士に駅で「戦争は罪悪であり、人類の大敵であり、放棄すべきである」と直接語ったため、僧籍は最低等級に格下げされ、当時の日本陸軍刑法で懲役4か月、執行猶予3年と判決され、さらに一生を刑務所で過ごした者もいました。ただ自らの良心に従っただけです。これは現代の人々にはなかなかできないことです。論語集解義疏にも「人、もし己が祖考に非ざるを祭るは、諂求幅なり」とあります。義とは為すべきことを指します。為すべきことを見て行わないのは勇敢さがないということです。勇敢さがなければ、どうして菩薩と称することができるでしょうか。
清澤満之(1863年8月10日 - 1903年6月6日)は、明治時代に活躍した真宗大谷派(本山・東本願寺)の僧侶、哲学者、宗教家です。旧姓は徳永、乳名は満之助、法号は信力院現釈誠。真宗大学(現・日本大谷大学)の初代校監(校長)を務めました。
尾張藩士・徳永永則の子孫として、尾張国名古屋(現・名古屋市)に生まれました。英語学校や医学部に進学しましたが、学校が廃止されたため断念。英語に秀で、愛知英語学校で通訳を務めました。淨土真宗本願寺派名古屋別院の医学部ではドイツ語を学びましたが、すぐに廃止されました。
1878年2月、真宗大谷派の僧侶となり、東本願寺育英教校に入学。当時はランニングや相撲に熱心でした。東京大学予備門に補充募集があり、短期間の準備で第一位で入学。1887年、東京大学文学部哲学科を第一位で卒業。同級生には後に文部大臣となる岡田良平、梅本順三郎、後輩には上田万年、沢柳政太郎などがいます。学生時代に井上円了らと「哲学会」を開始し、1887年2月に『哲学会雑誌』を創刊。同年、井上円了が哲学館(現・東洋大学)を創設した際、評議員および心理学・哲学史の講師を務めました。大学院では宗教哲学を専攻。
1888年7月、真宗大谷派の要請により京都府普通中学校校長に就任。清澤靖子と結婚し、清澤姓に改姓。その後、愛知県碧南市西方寺副住持を継承。退学しても研究を諦めませんでした。
1890年7月、京都府普通中学校校長を辞任。以降、極小主義(Minimum Possible)と呼ばれる最低限度の自戒生活を開始。黒衣黒袈裟を着用し、飯は漬け米、酒や茶は一切飲まず、飲料は水のみ。学問も『嘆異抄』などを頻繁に読み、自戒生活の実践に哲学を応用し、『宗教哲学骸骨』『他力門哲学骸骨試稿』を執筆。1892年8月刊『宗教哲学骸骨』は、1893年9月のシカゴ万国宗教会議で英訳され高く評価されました。
1894年、肺結核を患う。同年、禁欲生活による体力低下で、前法主の葬儀に寒空の京都で参列したことが引き金となったとされます。1896年、京都府愛宕郡白川村(現・京都市左京区)に移住し、白川党の宗門改革運動を開始。今川角人、稲葉雅正と共に『教界時言』を出版し、改革を推進。宗門から除名されました。
1898年、宗門から除名。独立を強く要求し、京都の真宗大学の東京移転が大きな転機となりました。1899年9月、東京本郷で私塾浩々洞を開設し、多田鼎、佐々木月樵、曉烏敏など多くの真宗学者・仏教研究者を育成。1901年、『精神界』を創刊。同年、東京の真宗大学校監に就任(現・日本大谷大学)、翌年辞任。
1903年6月6日、肺結核悪化により西方寺で死去、享年39歳。
生前、鈴木大拙らから高く評価されましたが、没後長らく忘れられていました。再発見は戦後、1965年春『中央公論』4月号座談会や1970年『近代日本を創った100人の宗教家』で言及され、1970年11月『日本名著』第43巻で紹介。その後、全集は2002~2003年、2012年に復刊されました。
清澤は正岡子規、夏目漱石など多くに影響を与えました。病床六尺で肺結核患者に送った手紙も知られています。夏目漱石の作品『吾輩は猫である』の八木独仙や『明暗』の主人公Kは、清澤を想起させる人物です。
山本伸裕によれば、清澤の仕事は、時代の濁流に迷い、煩悶する近代日本人に精神的立脚点を示したと評価されています。
---
《精神主義》 清澤満之
私たちのこの世界には、必ずや完全な立脚点が存在する。もしそれがなければ、世の中のこと、行いのことは、まるで浮雲の上で芸術を演じるようなものであり、崩れることのない能力は持てず、言葉を待つ必要もない。しかし、私たちはいかにして人生の完璧な立脚点を得ることができるのか。無限なるものは私たちの精神の内にあるのか、それとも精神の外にあるのか。結局、絶対的な無限者と追求する者との接点において、内面も外面も制限されている。私たちはこのような無限者に触れることで、人間界において完全な立脚点を持つ能力を得ることができるにすぎない。このような立脚点を得るための精神の発達の道を、精神主義と呼ぶ。
精神主義は自己の精神において満足を求めるため、外物や他者を追い求めても煩悶に苦しむことはない。また、外物や他者の形を追従するにしても、自らの家の不足のために追従してはならない。精神主義を採用することで、自己は不足を感じるのか。その充足は絶対無限者に求めるべきであり、相対的に有限な人や物に求めるべきではない。しかし、精神主義は外来的なものを強く排斥するわけではなく、人が外来的なものに作用すれば、その苦悩を感じるだけでなく、外来的なものも自由に変化させることができると信じるのである。したがって、彼の言う「心が清ければ仏土も清し」というのは、精神主義における外物への考え方をうまく表現したものである。
さらに、精神主義は自己の精神を必要とするがゆえに、必然的に外見や利己的な側面に偏ることがあり、他者を排斥することもある。しかし、精神主義は自己中心や他者を貶めるためのものではない。自己の立脚点を確立せずに他者の立脚点を先に確立することは不当である。自己の立脚点が確立されれば、それを他者に移すことも可能である。したがって、外物や他者との交わりによって、自己と他者の幸福を増進することは、精神主義は決して排斥せず、むしろ歓迎するのである。
このため、精神主義は隠遁主義であり、また退化主義でもある。社会や国家の福利を共同かつ調和的に発展させることは、むしろ精神主義の奨励するところである。精神主義は完全な自由主義である。もし制限されることがあれば、それは自らを制限する自己拘束であり、他者のために制限されるものである。自己も完全に自由であり、他者も完全に自由であり、かつ彼の自由と私の自由に衝突はない。これこそ精神主義における交際である。
通常の状況において、彼の自由、私の自由、そして衝突しない能力の間に何の違いがあろうか。精神主義による自由とは完全な自由であり、いかなる場合においても、絶対的服従と並行して自らの主張を自由に変え、他者の自由と調和して共存し、他者の自由と衝突することは決してない。
しかし、このような服従の下でも、最も注意すべきことは、苦痛や痛みを伴わないことである。この点において、唯心論には目的がある。言い換えれば、唯心論とは、これは幻想であり、各人の妄想に由来し、苦痛に満ちていると信じることである。否、これを唯心論と言わずとも、私は外界の他者の苦痛を同様に受け止める能力を持ち、また他者も私の苦痛を受け止める能力は持たない。したがって、時には外界の他者の行為に苦しめられることもあるが、精神主義の考慮に基づけば、私は自分の錯覚によって苦しめられているのであり、外部から苦しめられているのではないと認識するのである。人にとっては苦痛である。(これに反しても、知っておくべきである。)したがって、この苦痛は単に妄想による幻影にすぎず、唯心主義の実践が進むにつれて、私の視点は大いに恩恵を受けることになる。事実、この苦痛は徐々に減少し、消散するのである。
総じて、精神主義とは、私たちが世界に対処するための実行主義であり、その最重要の目的は、十分に満たされた精神の中で求め得るものを信じることである。そしてその発動の場は、外物や他者を追従しても煩悶しないことにある。人生の幸福を増進するため、完全な自由と絶対的服従を二重の目的として、この期間におけるあらゆる苦難を取り除くのである。
國際交流展:
【現場直擊】2025年日本第十三回 《東京現展》-展場:日本國立東京都美術館
《現場直擊》2025年日本第57回《神奈川現代藝術家展》 《神奈川現展》 -展場:橫濱第一座美術館 橫濱市民畫廊
【現場直擊】2025年《與風景對話》台灣日本藝術家交流展【日本站】
【參展申請】2025年日本東京國立新美術館展-〈第81回現代藝術家展〉(81回現展)-日本1948年就創立的現代藝術家團體展
日本東京《OPEN World Exhibition 2025》展
【現場直擊】日本第二十三回《NAU21世紀美術連立展》-東京國立新美術館展覽
日本東京銀座檜畫廊(ギャラリー檜)2023-2024年《美術展年鑑》
2025年日本東京銀座志門畫廊《GENTEN新春藝術博覽會》(現場直擊)
【現場直擊】2025 台灣日本藝術家交流展:《日本東京八壁展》
【預告】2024日本《第56回神奈川現展》將於日本橫濱第一座美術館-日本橫濱市民畫廊60週年紀念展覽
《日本東京八壁展》(Japan Tokyo Yakabe Exhibition)
《台灣日本國際交流展》【現場直擊】日本東京銀座畫廊《Gallery HiNOK:Art Fair XXⅥ》藝術展現場
《台灣日本國際交流展》【展覽現場】日本國立東京都美術館展-〈日本第十二回東京現展〉
日本東京銀座志門畫廊:日本現代美術家協会《現展》〈GENTEN新春アートフェア〉2024
日本橫濱三年展報告書出版 YOKOHAMA TRIENNALE 2017
王穆提社長隨筆:日本橫濱三年展 橫濱トリエンナーレ: ヨコハマトリエンナーレ2017 系列報導:日本橫濱情報志「SAKURA」Vol.24 刊登文章
日本橫濱三年展 橫濱トリエンナーレ: ヨコハマトリエンナーレ2017 系列報導:日本儒墨堂株式會社主辦華麗實存-台灣新美術展入選單位與串連會場
日本橫濱三年展 橫濱トリエンナーレ: ヨコハマトリエンナーレ2017 系列報導:華麗實存-台灣新美術展 開幕盛況
日本橫濱三年展 橫濱トリエンナーレ: ヨコハマトリエンナーレ2017 系列報導:刊登儒墨堂株式會社主辦華麗實存-台灣新美術展,協辦橫濱美術館與戶塚Sakura Plaza新聞
日本橫濱三年展 橫濱トリエンナーレ: ヨコハマトリエンナーレ2017 系列報導:活動宣傳於日本橫濱關內、櫻木町站
日本橫濱三年展 橫濱トリエンナーレ: ヨコハマトリエンナーレ2017 系列報導:橫濱美術館與橫濱港未來線活動宣傳
主辦:
「台灣飯田下伊那現代藝術文化交流展」,日本飯田市美術博物館,日本長野縣飯田市,2014年
「台灣現代藝術展」,日本東京都町田市文化會館,日本東京都,2016年
「台灣書道家-澹盧門生展」,日本東京都町田市文化會館,日本東京都,2017年
「台灣創造藝術展-女性藝術家展」 ,日本東京都町田市文化會館,日本東京都,2017年
「藍色亞洲展」,市川文化會館,日本千葉縣市川市,2017年
「亞洲和平藝術展-台灣日本書畫水與墨的魔法展」(與日本日展審查員聯展),神奈川縣民中心,日本橫濱市,2017年
「華麗實存-台灣新美術展」,入選日本橫濱三年展,戶塚SAKURA PLAZA,日本橫濱市,2017年
「愛與和平書畫藝術展」,神奈川縣民中心,日本橫濱市,2023年
「福爾摩沙台灣印象展」,戶塚SAKURA PLAZA,日本橫濱市,2023年
「台灣國際書畫展」,神奈川縣民中心,日本橫濱市,2023年
聯合展覽:
〈日本永恆的朋友展-台日交流展〉,日本仙台、台灣台北兩地展,2014年
〈日本大阪SNIFF OUT 2013國際藝術展〉,日本大阪市,2013年
聯合出版:
日本「亞洲藝術的殿堂」美術年鑑特輯,(收錄現代亞洲藝術家作品及國立故宮博物院寶物專輯),日本東京,2013年