東京都美術館開館100周年記念【14回東京現展】謝正瑜〈蓮池映相〉的感知哲學與靈性空間 - 東京都美術館開館100周年記念【第14回東京現展】倒影、蓮の葉、そして可視世界の交錯について ——謝正瑜(Hsieh Cheng-Yu)《蓮池映相》における知覚の哲学と霊的空間 文:王穆提(WANG MUTI)

倒影、蓮の葉、そして可視世界の交錯について

——謝正瑜(Hsieh Cheng-Yu)《蓮池映相》における知覚の哲学と霊的空間

 

文:王穆提(WANG MUTI)

「見る」ということは、決して単純な行為ではない。人は一幅の絵の前に立ち、眼を自分の外にあるものへ向ける。そして、自分こそが主体であり、絵は客体であり、世界は見られる対象であり、自己こそが視線の中心であると思い込みやすい。しかし、真に長く見つめるに値する作品は、ある瞬間に、この自信を静かに揺るがせる。人はそこで突然気づくのである。自分は何かを見ているだけではない。むしろ、見るという行為のただなかで、ある可視的なものによって逆に包み込まれ、引き寄せられ、浸透され、さらには微かに変えられてもいるのだ、と。

私にとって、謝正瑜(Hsieh Cheng-Yu)の《蓮池映相》は、まさにそのような作品である。表面上、この作品は一つの蓮池を描いている。一枚の蓮の葉、数輪の盛りを迎えた、あるいは散りかけた蓮の花、蓮蓬に止まる一羽のカワセミ、数匹のトンボ、幾重にも重なる繊細な水紋、そして遠方にかすかに見える楼閣のような建築。しかし、この作品を単なる花鳥風景として見るならば、結局のところ浅すぎる。見る者を立ち止まらせるものは、単に物象の豊かさではない。むしろ、すべてのものが互いに映し合い、互いに浸透し合い、各自の独立した境界を失ってゆく関係の網の中へ引き込まれている点にこそある。

題名《蓮池映相》において、本質的な意味は「蓮池」そのものにあるのではなく、「映相」にある。そしてここでいう映相とは、単なる視覚上の倒影ではない。それは、存在が他のものを通じて自らを現す一つの方式なのである。

ヘラクレイトス(Heraclitus)の視点から見るならば、この作品はまず、流変についての絵画として理解できる。ヘラクレイトスのよく知られた言葉——「同じ川に二度入ることはできない」——は、単に水についての命題ではなく、存在そのものが変化に根ざしていることを語る命題である。世界は完成された状態ではなく、生成の状態である。静止した名詞ではなく、流動する動詞なのである。

したがって、《蓮池映相》の池水は背景ではない。そこは、あらゆる意味が発生する場所である。画中の水面は、滑らかで明確な鏡として処理されていない。むしろ、重彩、重ねられた色層、光斑、水紋、暈染によって、見ることはできるが完全には固定できない表面として構成されている。この水面は映しているようでいて、明確な結論を与えない。静かに見えて、いたるところに微細な揺らぎを含んでいる。これこそが、ヘラクレイトス的な意味における世界である。事物は堅固に一つの場所へ固定されるのではなく、出会いの中で、流れの中で、成りつつあり散りつつある狭間において、一時的に成立するのである。

蓮は水に映り、楼閣も水に映り、葉の影も水に映り、光もまた水に映る。しかし水は一切を映しながら、それらを同時に静かに書き換えている。この意味において、この作品の哲学的出発点は「景物」ではなく、変動の中の顕現なのである。 しかし、この作品を流変だけで説明するならば、なお不十分である。謝正瑜は流変を破碎や焦躁として描いているのではなく、むしろ人がそこへ入り込むことのできる知覚場として描いている。ここでメルロ=ポンティ(Merleau-Ponty)が重要となる。メルロ=ポンティの最も深い洞察の一つは、世界は私の外にある対象の堆積ではなく、客観的に点検されるものでもない、という点にある。見ることと見られること、触れることと触れられること、主体と世界は、常に同じ「世界の肉」、あるいは「肉身の織物」の中で絡み合っている。 メルロ=ポンティの言葉を借りて《蓮池映相》を見るならば、画中のどの要素も真に孤立していないことに気づく。右側の深い青紫の大きな蓮葉は、単なる背景ではない。それは光と時間を吸収する暗い屏風のようである。左側の蓮葉と灰桃色の花は、単なる植物形態ではなく、水気の中から徐々に現れてくる生命の輪郭のようである。中景の水紋はすべてのものを互いに結びつけ、視線を一つの物に留まらせない。視線はつねに関係へ、雰囲気へ、湿りへ、揺らぎへと滑っていく。

この処理は、メルロ=ポンティが述べた「可視的なものと見る者との相互関与」をよく体現している。私たちは絵の前に立って一枚の葉を分析しているのではない。むしろ、画面全体によって可視性の雰囲気の中へ包み込まれている。したがって、ここでの見ることはもはや「私が絵を見る」という関係ではなく、「私が絵によって構成された知覚場に入っていく」という事態なのである。

メルロ=ポンティがこの作品の知覚構造を理解させてくれるとすれば、ガストン・バシュラール(Gaston Bachelard)は、この作品の水の物質的想像力を理解させてくれる。バシュラールは水を語るとき、それを単なる自然元素とは見なさない。彼にとって水は夢の物質であり、記憶の媒介であり、想像力がもっともよく住まうことのできる柔らかな元素の一つである。

この点は《蓮池映相》と深く響き合う。ここでの水は、単なる生態学的な池水ではない。それは夢、記憶、宗教的感覚、美的感受性によって変容された水である。遠方の楼閣は写実的に明確に描かれているのではなく、霧の中から浮かび上がる精神的建築のように見える。水面の光は、単なる物理的光源の反射ではなく、時間が沈澱する中で時折浮かび上がる霊光のようである。蓮葉や花でさえ、単なる植物標本ではなく、水気、陰影、色層の中で第二の生成を得た存在のように見える。

もしバシュラールがここにいたならば、おそらくこう言うだろう。これは一つの池を描いているのではなく、水がいかに世界を夢見ることのできる世界へ変えるかを描いているのだ、と。だからこそ、この作品の空間は透視法上の奥行きではなく、想像の奥行きである。見る者の視線を思わず遅くし、心を内側へ沈ませる心理的深度なのである。

しかし、この作品のすべてはまだそこに尽きない。この池の映り合いの中で、見逃してはならないのは、そこに呼び出される東方思想の構造である。とりわけ、莊子と周敦頤が示す二つの異なりつつ互いに補い合う読解の道である。

莊子の世界観は、支配や一方向の表現を重視しない。むしろ、物我相忘、万物相通を重んじる。「天地は我と並び生じ、万物は我と一つである」という言葉を、抽象的な玄談としてではなく、具体的な画面へ引き戻してみるならば、《蓮池映相》における非中心的な構図を理解するうえで、きわめて有効である。

この画面には絶対的な主役がいない。蓮花は目を引くが、蓮葉を圧倒しない。カワセミは鮮やかな色彩を持つが、画面の主権を奪わない。トンボは小さいが、画面に季節の節目を与えている。遠方の楼閣はかすかだが、全体に精神的な方向をもたらしている。これは一つのイメージが全体を支配する画面ではなく、万物がそれぞれの位置を守りながら、互いに条件となっている場なのである。この構図は、莊子的な物我平等にきわめて近い。人間の視点から世界に命令するのではなく、世界がその関係性の中で自ら語ることを許しているのである。

もし莊子がこの作品の宇宙的関係論を見せてくれるなら、周敦頤はこの作品の徳性の美学を見せてくれる。周敦頤『愛蓮說』の有名な一句——「泥より出でて染まらず、清き漣に洗われて妖ならず」——は、東アジアにおける蓮のイメージの基本文法となっている。しかし、謝正瑜の蓮を単に高潔の象徴として読むならば、それはあまりにも平板である。

画中の蓮は、孤高に世を避ける蓮ではない。道徳教科書の上に抽象化された純潔でもない。それは、なお深く世界の関係の中にある清明である。花は水中に咲き、葉は湿気を含み、鳥は蓮蓬に止まり、光は水面を流れ、遠方の建築もまたこの池の水気に包まれている。つまり、ここでの清浄とは「世界から離脱すること」ではなく、世界の中にありながら、濁らず、媚びず、浮かばない姿勢を保つことである。これは、周敦頤の蓮の精神が現代絵画の中で深化された姿である。真の清らかさとは、関係から退出することではなく、関係の中で光を失わないことなのだ。

ここで特に論じるべきなのは、作品に現れる霊的空間である。画面中上方にある、かすかに見える金褐色の建築は、作品全体を純粋な自然風景から引き上げている。この建築は画中で主導的な位置を占めているわけではないが、池の風景に置かれた精神的記号のように見える。それは記憶の中の寺院として読むこともできるし、彼岸からの呼び声として読むこともできる。あるいは、文明史や信仰空間が自然に投影されたものとして読むこともできる。

芸術構造の面から言えば、この要素はきわめて重要である。それは蓮池を単なる生態景観ではなく、自然、文化、霊性のあいだにある中介的な場所へと変えている。こうして、この作品の「映相」は、景物同士の相互反映にとどまらず、存在の異なる層同士の相互反映へと高まる。自然は文化を映し、知覚は記憶を映し、現在は永遠を映し、具体物は抽象的な霊光を映す。このため作品には、宗教美術に近い微妙な質が宿っている。しかし、それは図像によって直接説教するのではなく、雰囲気によって、ある種の精神的存在がそこにあることを感じさせるのである。

再び媒材そのものへ戻るならば、この作品における重彩は、単なる技法上の選択ではなく、時間の物質的堆積である。重彩の感動は華麗さにあるのではなく、色層そのものを時間へ変える点にある。謝正瑜は色をただ平面的に覆っているのではない。金褐、青緑、灰紫、深藍、赭粉が互いに沈み込み、貫き合い、隠し合い、現れ合うことで、厚くても塞がらず、潤っていても重くならない視覚的質感を生んでいる。

この色層の感覚によって、画面は一つの瞬間に完成したものではなく、何度もの凝視、何度もの塗り重ね、何度もの沈澱の中でゆっくり育ったもののように見える。ここで重彩は装飾性を超え、現象学的な意味を帯びる。一層一層の色彩は知覚の痕跡のようであり、一度一度の覆い書きは、時間が画面をかすめた痕のようである。したがって、この作品は水と映相を描くだけではなく、その材質構造の中で映相の本質を再演している。すなわち、一層が一層を覆い、一つの顕現が別の隠れを含むという構造である。

この作品をさらに学術的に要約するならば、私は次のように判断したい。《蓮池映相》の理論的深度は、第一に、ヘラクレイトス的な流変を視覚的な波紋と光影へ変換している点にある。第二に、メルロ=ポンティ的な可視性の絡み合いを通じて、見ることと見られることの関係を再構成している点にある。第三に、バシュラールの水の想像力を通じて、池水を夢と記憶の物質へ変えている点にある。そして最後に、莊子の物我不二と周敦頤の蓮の徳性を通じて、東洋的な宇宙と人格の寓意を完成させている点にある。

言い換えるならば、この作品が最終的に提示しているものは、消費可能な花鳥画の題材ではなく、知覚哲学、物質的想像力、東方霊性美学が交差する場なのである。

人はつねに自らを世界の中心として生きる必要はない。時には、一面の水、一輪の蓮、一つの倒影、一羽の休む鳥が、どんな騒がしい宣言よりも深く、存在の謙虚な秩序を教えてくれる。もし人がこのような絵の前でしばし足を止めるならば、現実とは決して正面から見える単一で明確な表面だけではないことを知るだろう。現実はしばしば、反射の中に、倒影の中に、半ば明るく半ば暗い水紋の中にあり、他のものと互いに映し合った後にこそ、より深く現れる。そして私たちの自己理解もまた、まさにそうではないだろうか。私たちは最も明晰なときに自分自身を理解するのではない。むしろ、朦朧、回顧、反映、ためらいの中でこそ、自分自身と出会うのである。

ゆえに私は、次の言葉をもって結びたい。謝正瑜の《蓮池映相》は、形式としては重彩花鳥画である。しかし精神としては、顕現がつねに流変を伴うこと、知覚がつねに相互関与を含むこと、清浄がなお関係の中に住まわねばならないことを示す哲学的イメージである。

この作品は蓮池を、可視世界の交差点へと変えている。水は物を映し、物は光を映し、光は心を映し、心は観照の中で、自分もまたこの全体的な映相の中の一筋の波紋にすぎないことを知る。このような作品の価値は、もはや美術史上の題材の継承にとどまらない。それは、古来の蓮のイメージに、現代の視覚の中であらためて思想の重量を与えているのである。

簡潔に言えば、謝正瑜の《蓮池映相》は、重彩を用いて、自然水景、知覚場、霊的空間のあいだにある複合的な視覚システムを構築している。蓮葉、蓮花、カワセミ、トンボ、水紋、遠方の楼閣は単に並置されているのではない。重ねられた色彩、暈染された光影、反射構造の中で、それらは互いに映し合う関係を形成している。

ヘラクレイトスの流変思想から見れば、池水はもはや背景ではなく、万物が生成し、不安定化する場所である。メルロ=ポンティの現象学から見れば、観者と画面の関係はもはや主客二分ではなく、同一の可視性の場の中における絡み合いである。バシュラールの水の物質的想像力は、この作品がいかに池水を夢と記憶の媒介へ変えたかを説明する。そして莊子の「万物と我は一つである」という思想と、周敦頤の「泥より出でて染まらず」という蓮の文化的文法は、作品に深い東方宇宙観と徳性美学を与えている。

総じて、《蓮池映相》は蓮池を題材とした装飾的な花鳥画ではない。それは、知覚哲学、流変意識、東方霊性の書き込みを、重彩という語法の中に融合させた成熟した作品なのである。