沈静はいかにして空(くう)にあらず、垂れ下がる物はいかにして最も思考に似ているかについて
—— 廖純沂(リャオ・チュンイー)『思域・沈静』に寄せて
執筆:王穆提(ワン・ムーティ)

人間が「沈静」に対して抱く誤解は、「空白」に対する誤解とほとんど同じくらい根深い。世の人は往々にして、少ないものを見れば「欠けている」と思い、淡いものを見れば「後退している」と思い、静かなものを見れば「何も起きていない」と思い込む。実のところ、それは正反対である。真に深い沈静というものは、大抵の場合「何もないから」ではなく、「あまりにも多くのものが、もはや喧噪を必要としなくなったから」こそ生まれるのである。それは淘洗(洗い流し)を経た後の「濃度」のようなものであり、もはや外に向かって注意力を求めることはなく、むしろそれゆえにかえって人を長くとどまらせる「内的な重量」なのである。
廖純沂のこの『思域・沈静(しいき・ちんせい)』は、私の目に、まさにそのような作品として映る。それは鑑賞者に驚嘆を強いることなく、充実した構図で視界を占領しようと焦ることもない。むしろ、低く持続的な方式をもって、人にゆっくりと足を踏み入れさせる。そうして人はついに気づくのだ。自分は単なる葡萄(ブドウ)の画を観ているのではなく、――「静かに時間を受け止める『場所』が、いかにして思想を果実のように垂れ下がらせるか」を観ているのだと。
画面の上方には、蔓(つる)と葉の間に数房の葡萄が寄り添っている。紫の中に赭(しゃ)を帯び、紫の中に赤を帯び、未熟な部分には青みが差している。果実はふっくらとしているが誇張はなく、市場で見かけるような、ほとんど現実離れしたほどに鮮やかな果物ではなく、むしろ空気、霧気、光、水によって共同で浸されたような「成熟」に近い。葉は青緑に灰を帯び、枝蔓は曲折しながらも狂放(荒々しさ)はない。巻いた蔓の髭が時折垂れ下がり、それは手書きの線のように、空気の中に微かな震えの軌跡を残している。最も特徴的なのは、果実と藤の葉が概ね上半部に位置しているのに対し、下半部はほぼ一面の、沈静な淡灰青色(ペールグレーブルー)の磁場(フィールド)となっている点だ。それは水面のようでもあり、霧の層のようでもあり、歳月が薄まった後に残された「呼吸」のようでもあって、まだ完全には占有されていない「心の空き地」のようでもある。
それゆえ、鑑賞者の視線は葡萄の描写のテクニックにのみ留まることはなく、自然とあの下方の空虚(ボイド)に引き留められ、ある深みへと向かって歩みを進めるかのような感覚を覚える。まさにそれゆえに、この作品は「思域」と名付けられていながら、思想を記号として描くことはせず、思想が真に発生するために必要な条件——一つの内的な「安放(安置)の地」——を描き出したのである。
私はかねてより、意味を急いで語り尽くそうとする作品をあまり信用していない。なぜなら、画がすべてをあなたの代わりに考えてしまったなら、鑑賞者には「受容」しか残されず、「応答」の余地がなくなるからだ。真に人を長く観させる作品というものは、往々にして、どれだけの答えを与えたかではなく、どれだけ心が入り込める「隙間」を残したかにある。『思域・沈静』はまさにこれである。それは詰め込まず、満堂の喝采を浴びるような旺盛さを追求しない。逆に、極めて抑制されている。葡萄は画面全体を占領せず、枝葉にも節度があり、下半部のあの広大な、ほとんど空無に近い留白(余白)と淡墨は、意図的に鑑賞者に注意を促しているかのようである。——この作品が描写しているものは、「葡萄の繁栄」ではなく、「繁栄の後、なお静まることのできる境地」なのだ、と。これは私に、西田幾多郎のいう「場所(basho)」を思い起こさせる。
西田のいう場所とは、決して単なる物理的な位置ではなく、事物が顕現し、互いに出会い、かつ互いを呑み込むことのない深層の磁場を指す。この視点から本作を眺めるならば、画中の真の主人公は、必ずしも葡萄そのものではなく、葡萄、葉、光点、そして観る者の「心」を受け止める、あの一面の淡灰青色の「場所」である。それは受動的な背景ではなく、積極的な「承載(受け止めること)」である。葡萄が静かに垂れ下がっていられるのは、それらが十分に鮮やかだからではなく、これらが喧噪することなく存在できるような「場所」があるからだ。もしあの沈静な磁場がなければ、葡萄はただの果実に過ぎない。この磁場があるからこそ、それらは自然の物から「精神の物」へと転化したのである。したがって、「思域」とは単なる題名の美しさではなく、真に構築された視覚的条件なのだ。画の前に立つ者は、自分が踏み入れた場所が葡萄園ではなく、思想が垂れ下がり、沈殿し、すぐさま結論を出す必要のない「場所」であることに、次第に気づいていくのである。
もし西田がこの作品を成立させる「場所性」を理解させてくれるとすれば、ガストン・バシュラールは、その「物質性」がなぜこれほどまでに人の心を打つのかをさらに明らかにさせる。バシュラールが水、霧、家、隅っこ、そして心が居住できる様々な物質を語る際、彼は常に人間に念を押した。ある種の図像が人に深い作用をもたらす理由は、それがどれほど正確に描かれているかではなく、それが人間の中にある、ある種の「内的な質感」に対する古い感覚を喚起するからである、と。『思域・沈静』の最も強烈な物質感は、葡萄の皮面の光沢ではなく、画全体に漂うあの軽微な「湿り気を帯びた静気」である。あの淡灰、白霧、希薄な青のニュアンス、そして紙の上の暈し痕や細かな点は、画面に水気のような緩慢な質感をもたらしている。それゆえ葡萄は乾燥して紙に貼り付けられているのではなく、なお湿度があり、呼吸を保持した空間の中で漂っているかのように見える。この「湿性」は極めて重要である。なぜなら、思想というものも本来、石のように乾燥して明確なものではないからだ。思想はむしろ水霧に似ており、ゆっくりと浮かび上がり、ゆっくりと沈み、絶えず散りゆきながらも絶えず凝結する「形」なのだ。
このことは私に、「沈静」がここでは単なる心理的な形容詞ではなく、一つの「物質状態」であることをますます実感させる。これらの葡萄を観てほしい。それらは単にそこに垂れ下がっているのではなく、むしろ時間によって優しく押さえられ、空気によって軽く托され(持ち上げられ)、熟宣(ドーサ引きの画仙紙)の繊維と水墨や鉱物顔料の落ち着き(沈着)によって、共に引き留められているかのように思える。それらは突然明滅する生命ではなく、成長、飽満、待機、そして成熟を経た後に、ついに「もう焦燥することのない」存在へと到達したものなのだ。まさにそれゆえに、それらはこれほどまでに「思想」に似ているのである。真の思想とは、第一時間のリアクション(即時反応)ではなく、内面でゆっくりと形成され、ゆっくりと重みを増し、最後に自然と垂れ下がってくるものなのだ。葡萄が垂れるのは、それがふっくらと実っている(飽満である)からであり、思想が低く垂れるのもまた、それが成熟しているからである。そのように言うならば、本作の葡萄は単なる果物ではなく、思の結晶——時間によって育まれ、内なる意味によって張り詰めた(撐満された)果実たちなのだ。
ここまで来ると、私はアンリ・ベルクソンを思い出さずにはいられない。ベルクソンは常に私たちに、真の時間とは時計の上の分秒ではなく、内なる「持続(綿延/durée)」なのだと注意を促した。画中の葡萄が人の心を動かす理由は、写実的に描かれているからではなく、明らかに「持続」を帯びているからだ。——花から実へ、青から熟へ、日光から霧の光へ、旺盛から静定へという、一連の生命の蓄積を帯びているのである。あなたは「ある一瞬の葡萄」を観ているのではなく、一定の時間が「いかにして葡萄へと沈殿していったか」を観ているかのようだ。このことは、画中の果実を単なる「当下の物件」ではなく、「持続する形体」へと変える。一粒一粒の果実の中に、それまで経験してきたすべての光と雨が隠されているかのようであり、一本一蔓の屈曲にも、成長の途上での每一次の躊躇い(ためらい)と依存が記録されているかのようである。こうして、これらの葡萄は画の中で単なる成熟の表象であることをやめ、時間が可視化された姿となったのである。
しかし、時間だけを語るのでは、この作品の深さを説明するにはなお不十分である。なぜなら、この作品のさらに微妙で優れた点は、「沈静を閉鎖(閉じこもること)と同等にさせなかった」点にあるからだ。画面は静かであるが死んではおらず、空(くう)であるが冷たくはない。下方の広大な面積の空処は、特に私を幾度も出神(我を忘れさせる)させる。そこには具体的な物件はほぼ存在しないが、まさにそれゆえに、そこは画全体の中で最も「精神的重量」を持つ部分となっているのである。このとき、私は荘子の「虚」と「遊」を思い出し、また『老子』の「有之以為利、無之以為用(有るをもって利となし、無きをもって用となす)」を思い出す。この東洋的な思考を借りるならば、本作の下方の空(空きスペース)は単なる留白(余白)ではなく、真に「用いることのできる『無』」なのだ。葡萄は上に掛かり、思想は下方のあの「虚」の中で発生する。鑑賞者はただ上方にある成熟した果実を見上げるだけでなく、同時に下方のあの柔らかな霧のような「空なる場(空場)」に牽引され、心の中にゆっくりと「沈静に耐えうる空間」を空け広げていくかのようである。このような空は、内容が無いのではなく、内容が粗暴に詰め込まれる前の、最も貴重な状態なのだ。人間が真に思考できるのは、往々にして脳内にどれほどのものが詰まっているかではなく、心の中に「音に占領されていない場所」が残っているからである。廖純沂はこの理(ことわり)を深く知っている。それゆえ、彼女は作品を満たす(満)のではなく残し(留)、誇示する(炫)のではなく留まり(停)、鑑賞者を外へ引きずり出すのではなく内へと導いたのである。
別の側面から言えば、本作はハンナ・アーレントによる「思索」への理解からも見ることができる。アーレントはかつて、真の思索を一種の「撤退」と見なした。それは世界から逃避することではなく、喧騒から一時的に身を引き、自らを判断へ、内なる対話へと立ち戻らせることである。『思域・沈静』のなかの葡萄は、まさにこのような「思」の形象ではないか。それらは奔放に四方へと拡張するのではなく、低く垂れ、安住し、自立(自持)している。葡萄は決して頭を高く掲げる果実ではない。その姿は常に「下へ向かう重力」を帯びている。そしてこの下へと向かう姿勢こそが、むしろそれらを「内在性の象徴」へと近づけるのである。真に落ち着き(沈着)のあるものはすべて、結局のところ高いところに漂うのではなく、ゆっくりと内へ、下へ、重力の中へと自らを安頓(落ち着かせる)させるものなのだ。思索もまた同じである。すべての素早い反応が思索と呼ばれるわけではなく、真の思索とは往々にして葡萄のように、蓄積、沈黙、待機を経た後、最後に飽満な重量を伴って垂れ下がるものなのである。
これはまた、シモーヌ・ヴェイユによる「注意力」への理解をも思い出させる。ヴェイユは、真の注意とは意志による強制ではなく、世界に粗暴に要求することのない「凝視」であり、自分自身を静かにさせ、事物が自らあなたに向かって開かれるのを「待つこと」なのだと考えた。廖純沂のこの作品は、ほぼこの注意力の図像化(ピクトリアライゼーション)である。それは狩猟的な観看(見方)を喚起せず、鑑賞者に即座の発言を強いることもない。逆に、それはあなたに、忍耐強く、声を潜め、ゆっくりとそこに留まることを要求する。そのような待機の中で初めて、あなたはあの葡萄たちの間にある微妙な色の差、葉の深浅の変化、背景の水痕のような浮遊、そしてあの大胆な留白(余白)が空虚ではなく、静かな水面のように、上方から「落ちようとしてまだ落ちないすべてのもの」を黙々と受け止めていることに気づくのである。このような観看の方式は、それ自体が哲学的である。それは占有ではなく凝神(精神を集中させること)であり、判断ではなく承接(受け止めること)なのである。
しかし、私はこの作品をあまりにも荘厳に読み解くことで、これが実は「極めて優しい親密さ」をも持っていることを忘れたくはない。あの葡萄たちは冷え冷えとした概念のキャリアではなく、依然として親しみやすく、果実の柔潤さ、葉蔓の活気、自然な成長の愉悦を帯びている。だからこそ、作品の中のあの沈静も硬直したものではなく、ある種「生活に浸されたような静けさ」なのである。このことが、それを哲学に入り込ませつつも、人間の日常から離れることのないものにしている。この画の前に立つ人は、葡萄棚の下の陰影や、午後の風、成熟した果実の重み、あるいは未だ言葉には出していないが心の中で徐々に沈定(定まっていく)していく「ある事柄」を思い浮かべるかもしれない。このような画こそが、真に高みに達している。それは哲理を口にすることなく、哲理を一串一串の実際の果実の中からゆっくりと育て上げている(長出来している)のである。
私は常に、作品に対する感受を最後に自分自身へと還さねばならないと思っている。なぜなら、私たちが画を観るとき、それは単に画を判断しているだけではなく、実のところ画を借りて「自分自身が今、世界といかなる関係にあるか」を確認(識別)しているのだと信じているからだ。『思域・沈静』は私にとって、まさに一つの警告(リマインダー)のようである。——真に大切にすべき状態とは、必ずしも熱烈であることでも、高揚していることでも、常に外に向かって発光していることでもないのだと。時にはむしろ、このような瞬間こそが貴いのだ。すべてがまだ生きていながらも、急ぐ必要のない時。すべてがすでに満ちていながらも、喧噪のない時。すべてがそこにありながらも、心が自らを安放(安らげる)ための広大な空白を残している時。もし人間がこのような内なる地を持つことができれば、世界がどれほど騒がしくとも恐れることはない。なぜなら、自分にはまだ消費し尽くされていない「思域(思考の領域)」があるからだ。もし人間がこのような沈静に到達できれば、生命がいかに変転しようとも恐れることはない。なぜなら、自分にはなおいくつかの事柄が、葡萄のように、静かに、自足的に、深遠なる甘美さを伴って、そこに垂れ下がっているからである。
それゆえ、私が『思域・沈静』を観るとき、最終的に読み取るものは単なる葡萄ではなく、葡萄として描かれた「哲学」なのだ。
思想とは鋭い刃ではなく、むしろ果実に似ている。
沈静とは空白の欠落(不足)ではなく、重みに耐えうる「磁場(場)」である。
成熟とは誇張(張揚)することではなく、「低く垂れる術を知っていること」なのである。
もし一言で結ぶとするならば、私はこう言いたい。
廖純沂の『思域・沈静』が描いたものは、単なる藤の上の果実ではない。それは思想がいかにして時間の中で飽満(熟成)し、最後に喧噪を必要としない重量をもって、静かに世界の中へと垂れ下がるかという、その姿そのものなのである。
要約の分析: 廖純沂の『思域・沈静』は、熟宣(ドーサ引きの画仙紙)、水墨、鉱物顔料、そして複合顔料を用いて、葡萄、藤蔓、そして大面積の静謐な留白(余白)が共同で形成する「内なる磁場(フィールド)」を構築している。作品中の葡萄は単なる自然の写生ではなく、時間を経て沈殿した「思想の形象」に酷似している。——飽満でありながら低く垂れ、成熟しながらも喧噪を持たない。西田幾多郎の「場所(basho)」の概念を借りるならば、画面下方の広大な空域は背景ではなく、思想が成立するための深層空間として機能している。ベルクソンの「持続(綿延)」の観点から見れば、葡萄もまた単なる当下の果実ではなく、時間が累積した後の「可視的な形体」である。総じて、『思域・沈静』は単に一房の果実を描写したものではなく、内なる成熟がいかにして沈静の中でその重量を獲得するかという、一つの「存在状態」を開示する傑作である。

