空性は逃避となってはならない
あまりにも容易に口にされる「空」を、なぜ私は疑うのか
私はしばしば疑う。ある人が急いで「一切は空である」と言うとき、その人は必ずしも空を語っているのではなく、自分のために高尚な隠れ場所を探しているだけではないか、と。人は傷つくと空と言う。人を傷つけても空と言う。世間の不義を見て空と言う。自分が引き受けるべき責任に出会うと、無我と言う。もしそれが一時の自己慰めにすぎないなら、まだ理解できる。しかしそれを仏法の究竟義と誤認するなら、非常に危険である。
私は空を語ることに反対しているのではない。むしろ、仏法に空がなければ、自己、他者、国家、民族、道徳、成敗、名声、身体、感情に対するさまざまな固執を破ることはできない。人がこの世で苦しむ最も深いところは、境遇に出会うこと自体ではなく、境遇に出会った直後、その中に硬い「私」を作り出すことにある。この私が傷ついた。この私が不当に扱われた。この私が自分を証明しなければならない。この私が正義を取り戻さなければならない。この私が負けてはならない。境遇そのものは一本の矢にすぎないのに、私たちは自分の解釈、記憶、怒り、恐れによって、第二、第三、第四の矢を作り出す。
仏陀は『雑阿含経』において二本の矢の譬えを説かれた。凡夫が苦受に出会うと、二本の矢に射られるようなものである。第一の矢は身心の因縁によって感受される苦であり、第二の矢はその苦受に対して生じる憂悲苦悩、瞋恚、執取である。聖弟子は必ずしも第一の矢をまったく受けないのではない。ただ第二の矢には射られないのである。この譬えを思えば思うほど、私はその深さを感じる。なぜならそれは、修行者なら痛みも病も誤解も過去業の果報も受けないかのように、修行を浪漫化することを許さないからである。また、自分はただ世界に無辜に撃たれた者であるかのように、苦を完全に外境へ押しつけることも許さない。仏法の冷静さはここにある。ある苦は現起する。しかしその苦の上に、さらに「苦しむ私」を作る必要は必ずしもない。
しかし、まさにここで空性は誤用される。ある人は「苦は空である」と聞いて、苦を処理しなくてよいと思う。「我は不可得である」と聞いて、責任も不可得だと思う。「善悪もまた仮名である」と聞いて、善悪には区別がないと思う。この理解は空性ではない。空性を麻酔薬にしているのである。真の空性は人を麻痺させない。むしろ人を目覚めさせる。
私は、阿毘達磨や部派論書によく見られる問答を思い出す。ある人が問う。なぜ仏は外道のある問いに答えなかったのか。外道は問う。「神我は本来無かったが今有る。すでに有るようになった後、それは常であるのか、断であるのか。」仏は答えない。論書は、仏がこう考えたからだと説明する。「畢竟して神我は無い。どうして本来無く今有り、すでに有るものが断か常かを問うことができようか。」つまり、その問い自体がすでに「神我」あるいは実体的自我を仮定し、そのうえでそれが常か断かを問うているのである。仏が答えないのは、知らないからではない。その問い自体が「非有非実」だからである。もともと成立していない対象について常か断かを答えれば、どちらに答えても誤った前提を認めてしまう。
この点は、私が「空」を理解するうえで大いに役立つ。仏法は、問われれば何でも答えるというものではない。また、あらゆる概念を安立してよいというものでもない。仏が答えないとき、それは沈黙ではなく、誤って設計された議論に参加することの拒否である場合がある。たとえば誰かが「その永遠の我は、死後どこへ行くのか」と問うなら、仏法は「行く」あるいは「行かない」と直接答えることはできない。なぜなら、問いの中の永遠の我が、そもそも不可得だからである。また、「無我なら責任も無いのか」と問うなら、それも清浄な問いではない。なぜなら責任をまず実我の上に立て、その後に無我をもって責任を否定しているからである。仏法はそう説かない。
同じ文章はまた、外道が仏に「自ら作り自ら受けるのか」と問うたと述べる。仏は答えるべきではないと言う。なぜか。外道は「我が作り、我が受ける」ことを前提としているが、世尊は常に無我を説かれるからである。もし自作自受と言えば、過去に業を作り現在に報いを受ける実我があるという常見に落ちる。外道はまた「他が作り他が受けるのか」と問う。仏はこれにも答えない。外道はあるいは自在天が作り、我が受けると言うかもしれないが、世尊は常に、自らの身口意業による果報を説かれる。もし他作他受と言えば、外在の主宰者あるいは他力決定に落ち、有情自身の身口意業の責任を破壊する。外道はさらに「作も受も無いのか」と問う。仏はこれにも答えない。外道はあるいは苦楽は因より生じないと言うかもしれないが、仏は常に有因有縁を説かれる。もし無作無受と言えば断見に落ち、善悪業果がすべて取り消される。
ここを読むと、私はさらに明らかに理解する。仏法の難しさは、それがどれほど多くの答えを与えるかにあるのではなく、しばしば私たち自身の問いを先に点検することを求める点にある。多くの場合、私たちは誤った問いを持って仏法に迫り、そのうえで仏法が自分の欲する慰めを与えないと責める。たとえば私たちは「無我なら誰が責任を負うのか」と問う。この問いはすでに、実我がなければ責任もないと仮定している。しかし仏法の答えはこうである。実我がないことは因果がないことではない。常一主宰がないことは、行為に結果がないことではない。不変の我がないことは、識流、業種、習気、現行の間に相続がないことではない。
したがって、あまりにも軽々しく空を語る人は、空を深く理解しているのではなく、まず自分の問いを点検していないことが多い。その人は空を一種の取消しとして理解している。苦を取り消し、責任を取り消し、善悪を取り消し、世俗を取り消し、他人の感受を取り消し、自分がすべきことも取り消す。しかし仏法の空は、決してそのような取消しではない。空とは「無い」という意味ではなく、「自性が無い」という意味である。「処理しなくてよい」という意味ではなく、「実有として執着してはならない」という意味である。「因果が無効である」という意味ではなく、「因果はまさに無自性であるがゆえに相続し転変しうる」という意味である。
龍樹は『中論』において言う。「衆因縁生の法を、私はすなわち空であると説く。またそれは仮名であり、またそれが中道の義である。」この四句は、空性が逃避になることを防ぐ第一の門であると私は思う。龍樹は「一切皆空だから一切気にしなくてよい」とは言っていない。彼が言っているのは、因縁によって生じるがゆえに無自性であり、無自性であるがゆえに仮名として安立でき、仮名として安立されるがゆえに実有でも断無でもない、ということである。中道はここにあり、逃避の中にはない。
もし苦が実有なら、永遠に転化できない。もし苦がまったく無いなら、慈悲を必要とする人もいない。苦が縁起であるからこそ、それは感受されもするし、転化されもする。それを永遠の本質として執着してはならず、また軽率に無いと言ってもならない。この点はきわめて微妙である。世間の多くの誤りは、人がこの二面を同時に認められないことから生じる。一方で、出来事は確かに起こった。他方で、それは自性として成立しているのではない。
私はかつて、人間は奇妙だと思った。自分が苦しむとき、人はしばしば苦を極めて実在的に見る。他人が苦しむときには、すぐ「一切皆空」と言いたがる。自分が侮辱されると、一字一句が刀のように感じられる。他人が侮辱されると、「執着するな」と言う。自分が誤解されると、全世界に自分の因縁を理解してほしいと求める。他人が過ちを犯すと、その人を救いようのない者として固定する。この非対称こそ、我執の技巧である。それは仏法の言葉を使うことを知っているが、仏法によって照らされることを望まない。
だから私は、まず一つの簡単な基準を立てたい。ある人の空性が、その人をより誠実にし、より責任を負わせ、より謝罪できるようにし、より境界線を築けるようにし、他人の苦により共感できるようにするなら、その空性はおそらく正道を歩んでいる。もしある人の空性が、その人をより冷淡にし、より逃避的にし、責任を負わなくさせ、因果を軽んじさせ、他人の痛苦を蔑ませるなら、それは空性ではない。仏法の名詞で飾られた自己防衛である。
仏法における空は、世界を取り消すものではない。世界が私たちに及ぼす絶対的支配を緩めるものである。空性は扉を閉めるのではなく、窓を開ける。扉を閉めれば、人は自分の孤立の中に隠れる。窓を開ければ、空気が入り、光も入り、外の事物が鉄で鋳られたものではなく、必ずこうでなければならないものでもなく、永遠に変えられないものでもないと見える。
二諦について、あるいは人が世俗において責任を負い、勝義において縛られないために
『中論』はまた言う。「諸仏は二諦に依って衆生のために法を説く。一つは世俗諦、二つは第一義諦である。もし人が二諦を分別して知ることができなければ、深い仏法において真実義を知らない。俗諦に依らなければ第一義を得ず、第一義を得なければ涅槃を得ない。」この数句を本当に読むなら、もはや空性を用いて現実から逃げることはできない。
私は特に「俗諦に依らなければ第一義を得ない」という一句に畏敬を覚える。なぜならそれは、勝義が現実の脇を迂回して得られるものではないことを示しているからである。父母、伴侶、友人、社会、制度、身体、言語、金銭、病、死に向き合わずして、自分はすでに第一義を得たと言うことはできない。人が世俗の責任すら負おうとしないのに、勝義に安住していると自称するなら、それは勝義を逃亡者の洞穴にしているだけである。
世俗諦において、痛苦は影響をもたらす。言葉は人を傷つけ、制度は人を抑圧し、差別は恐怖を生み、嘘は信頼を破壊し、暴力は身体を壊し、貧困は選択を制限する。もし誰かが「これらはすべて空だから大したことはない」と言うなら、それは仏法ではなく、残酷である。
しかし勝義諦においては、これらはすべて無自性である。いわゆる加害者は永遠に固定された悪の本体ではない。いわゆる被害者も、永遠に苦しむしかない本質ではない。事件は無数の因縁によって生じ、感情は触・受・想・行によって生じ、記憶は繰り返し敷衍され、自我感は末那識によって摂取され、言語はこれらを物語として固定する。勝義は世俗を否定するのではなく、世俗が牢獄として凝固しないようにする。
だから私は、二諦を次のような平易な一句として理解したい。「世俗において責任を負い、勝義において執着しない。」
世俗だけを語り勝義を知らなければ、人は怒りに陥りやすい。敵を絶対的な敵にし、自分を絶対的な被害者にし、事件を転化不可能な運命にするからである。勝義だけを語り世俗を顧みなければ、人は冷淡になりやすい。一切は幻であると言いながら、幻の中の衆生がなお恐怖することを忘れる。一切は夢であると言いながら、夢の中の刃がなお人を驚かせることを忘れる。無我と言いながら、因果の相続が作用を失ったことは一度もないと忘れる。
仏が「自作自受」「他作他受」「無作無受」などの問いに答えなかったのは、まさにそれらの問いが二諦の正見に安住していないからである。もし自作自受と言えば、世俗因果を勝義の実我と誤解する。もし他作他受と言えば、自分の行為責任を他者や主宰者へ押しつける。もし無作無受と言えば、世俗因果までも破壊する。仏法の中道は、この三つのいずれかを選ぶことではない。世俗においては、身口意業と苦楽果報が相続して失われない。勝義においては、作る者も受ける者も不可得であり、常一主宰の我はない、と見ることである。
これを生活に落とせば、非常に直接である。誰かがあなたに金を借りて返さないなら、世俗においては請求し、証拠を示し、法律に訴えることができる。勝義においては、自分を永遠の被害者として固定する必要も、相手を永遠の悪人として固定する必要もない。誰かに利用されたなら、世俗においては関係を断ち、境界線を作ることができる。勝義においては、その事が因縁和合であると観察し、瞋恨を新たな業種にしない。誰かが他人を差別するなら、世俗においては誤りを指摘し、傷つけられた人を守ることができる。勝義においては、偏見も無明、恐怖、教育、メディア、階級不安などの因縁の集合であると知り、その行為を止めつつ、憎しみで憎しみを養わない。
『金剛経』は「応無所住而生其心」と言う。私はこの一句もまた、しばしば誤解されていると思う。ある人は「無所住」だけを覚え、「生其心」を忘れる。仏は人の心を石のようにせよと教えているのではない。世界に何も応答するなと教えているのでもない。無所住とは、色声香味触法に住せず、我相・人相・衆生相・寿者相に住しないことである。生其心とは、それでもなお布施心、慈悲心、護持心、菩提心を生起することである。無所住でありながら心を生じなければ枯木に近い。心を生じながら至るところに住すれば凡夫に落ちる。経文の妙は、いかなる一辺にも偏ることを許さない点にある。
人はよく問う。「一切が空なら、なぜ善を行うのか。」私はむしろ問いたい。「一切が空でなければ、善を行うことに何の可能性があるのか。」もし人性が固定され、悪人は永遠に悪く、善人は永遠に善く、制度は永遠にこのままで、憎しみは永遠にこのままで、創傷は永遠にこのままであるなら、修行、教育、懺悔、改革、慈悲はすべて意味を失う。まさに一切が無自性であるからこそ、悪習は改まり、煩悩は転じ、傷は癒え、制度は修正され、言語は学び直され、心も因縁が変わるとき旧習気の通りに流れ続ける必要がなくなる。
だから空性は行動の敵ではなく、行動の根拠である。ただしそれは、行動から少し自己崇拝を減らす。空を知らない人は、行動するときしばしば自分が正義の人であることを証明しようとする。少し空を知る人は、ただこのことは処理される必要があり、この苦は減らせる、この人は守られる必要があり、この制度は修正される必要があると見る。前者は行動の後、勝敗に執着しやすい。後者は結果をなお重んじるが、結果を自分の本体にはしない。
「唯識」が、私に世界を世界のせいにさせない理由
私は以前、唯識を学んだとき、「唯識所変」という四字に最も惹かれた。この四字を粗く読めば、奇妙な慰めに陥りやすい。すべては識所変であるなら、外の世界をあまり真剣に扱わなくてもよいのではないか。境界が識を離れないなら、他人の痛苦も心識の顕現にすぎないのではないか。我法がみな仮であるなら、人間世界の是非にそれほど執着する必要があるのか。
しかし『成唯識論』は、私にそのような怠惰を許さない。それは「世間聖教に我法を説くも、ただ仮立によるもので、実有性はない」と言い、また「その相はみな識の転変に依って仮施設される」と言う。これは世間を取り消せと言っているのではない。世間がいかに施設されるかを知れと言っているのである。苦を否定せよと言っているのではなく、苦がいかに識の中で構成され、執取され、延続されるかを見よと言っているのである。もし私が唯識を「外在の一切は重要でない」と理解するなら、それは唯識を精巧な自己中心主義にしているだけである。
唯識が本当に鋭いのは、私に世界を否定させる点ではなく、私に世界だけを完全に責めることを不可能にする点にある。唯識から見れば、私が遭遇する世界は、単に外境が私の前に来たものではない。それは過去の薫習、名言種子、我法二執、末那の思量、意識の敷衍が共に参与した結果でもある。これは外境に作用がないという意味ではなく、他人の悪行が悪行でないという意味でもない。悪行が私の心の中でどのような世界になるかは、私の識流とも関係している、という意味である。この点は受け入れがたい。なぜなら、それは私を純粋な被害者でいさせないからである。
人は世界を外在の敵として見たがる。その方が簡単だからである。私が苦しいのは彼が悪いからだ。私が怒るのは社会が悪いからだ。私が過激になるのは時代が悪いからだ。私が冷淡なのは衆生が救うに値しないからだ。これらの言葉には時に一部の真実がある。外在因縁には確かに力があるからである。しかしこの一部だけなら、修行は始まらない。修行は、居心地の悪い問いから始まる。これらの外縁のほかに、私の心はどのように苦の製造に参加したのか。
『成唯識論』は、愚夫が計る実我実法はすべて無所有であり、ただ妄情に随って施設されると言う。内識が変じる似我似法は有るけれども、実我法性ではない。ただそれに似て現れるがゆえに仮と言われる。この「似」という字はきわめて重要である。人生の多くのものは、まさに「似」であるがゆえに力を持つ。侮辱されたように見える。否定されたように見える。すべてを失ったように見える。永遠に立ち直れないように見える。相手が救いようのない人のように見える。それは真実の自性ではないが、心を動揺させるには十分である。それは完全に無いわけではないが、現れている通りに存在しているわけでもない。
私はしばしば、修行の初めは直接空を見ることではなく、まずこの「似」を見ることだと思う。私は世界を見ていると思っているが、実は「似世界」を見ている。私は他人を見ていると思っているが、実は「似他人」を見ている。私は自分を見ていると思っているが、長い薫習が変現した「似我」を見ている。唯識はすべての経験を否定するのではない。経験はすでに心識によって加工されていると言うのである。もしこの点を知らなければ、私は加工品を原物とし、敷衍を事実とし、感情の脚本を真理としてしまう。
これは現代人にとって特に重要である。なぜなら、私たちが毎日見ている世界の大半は、もはや直接経験ではなく、メディア、SNS、見出し、アルゴリズム、編集、伝聞によって加工された世界だからである。これらの外的加工は、私たちの内にすでに存在する種子を触発する。すると私たちは一人の人を見るのではなく、ラベルを見る。一つの事件を見るのではなく、立場の戦争を見る。因縁を見るのではなく、敵味方を見る。唯識が今日なお力を持つとすれば、それは外の影像が眼耳に入った後、内なる種子と分別の幾重もの転変を経て、初めて私が怒る世界になることを思い出させる点にある。
阿頼耶識は瀑流のごとし、また人が一夜にして聖者になれない理由
『成唯識論』は阿頼耶識を「恒転して瀑流のごとし」と言う。私はいつも、これは唯識の中で最も人生経験に近い譬喩の一つだと思っている。瀑流は一方で相続して絶えず、他方で一刹那ごとに同じ水ではない。断であると言えば、明らかに流勢がある。常であると言えば、一刹那ごとに変動している。論は、恒とは無始以来の一類相続であり、転とは念念生滅し前後変異することであると言う。果が生じるがゆえに断ではなく、因が滅するがゆえに常ではない。非断非常、これが縁起の理である。
これは人の性格を思い起こさせる。人はよく「私はこういう人間だ」と言う。この言葉は半分真であり、半分偽である。もし完全に偽なら、なぜ私たちの習気はこれほど頑固なのか。もし完全に真なら、なぜ修行や教育にはなお可能性があるのか。人の怒り、恐れ、貪愛、羞恥、驕慢は、瀑流のように慣性を持つ。それは今日突然形成されたものではなく、今日経論の一段を読んだからといってすぐ消えるものでもない。しかしそれは固定された本質でもない。もし固定された本質なら、仏法は無意味である。もし相続が全くないなら、業果も成立しない。
だから修行は浪漫化できない。今日空を理解したと言って、明日には完全に我執がなくなるわけではない。今日唯識を語ったからといって、明日すべての種子が現行しなくなるわけではない。今日慈悲を語ったからといって、明日から瞋恨がまったくなくなるわけではない。瀑流が瀑流であるのは、長い間流路を刻んできたからである。修行が修行であるためにも、長く流れの向きを変えなければならない。
『成唯識論』は、種子には本有と始起の二類があり、染浄諸法は薫習によって種子を増長させると言う。能熏と所熏が共に生じ共に滅し、種子を成長させることは、胡麻が香りを吸収するようである。この説は素朴であり、また残酷である。それは私に、毎一回の心行が未来の自分を作っていると告げる。宿命論的に作るのではなく、傾向として作るのである。今日一度多く怒れば、明日怒りの道は少し平坦になる。今日一度多く観察すれば、明日清明の道も少し平坦になる。
したがって、「頓悟すれば一切無碍」と宣言する言葉に対して、私はいつも少し疑いを保つ。頓悟を否定するのではない。凡夫が頓悟を漸修からの逃避として想像しやすいことを疑うのである。もし阿頼耶識の中の種子が相続し、末那識が無始以来恒審思量し、我癡・我見・我慢・我愛が長く染污意と相応してきたなら、一つの見解の転換は確かに重要だが、それが生命の方向を本当に変えるには、反復された薫習に入らなければならない。
人は高潮を好み、反復を好まない。しかし修行の大部分は反復の中で完成される。自分が怒ることを繰り返し見る。受と取の間で繰り返し少し止まる。相手を絶対的な敵にしないことを繰り返す。謝ることを繰り返す。引き受けることを繰り返す。苦が自分のところからさらに拡大しないよう繰り返す。これらは華やかではないが、本当に種子を変える。
末那識について、あるいは私の心の中の休まぬ弁護士
阿頼耶識が瀑流のようであるなら、末那識はその瀑流の傍らにいる、決して休まない弁護士のようである。それは絶えず言う。これは私である。これは私のものである。これは私が受けた傷である。これは私が得るべき尊重である。これは私から奪われたものである。これは私が守らなければならない尊厳である。
『成唯識論』は末那識を「恒審思量」と言い、また転依以前には常に蔵識を縁じ、それを自内我として執着し、我癡・我見・我慢・我愛の四煩悩と相応すると説く。この四者は、凡夫の日常心理の大部分をほとんど説明できる。我癡とは無我を知らないことである。我見とは非我の法を妄りに我と計ることである。我慢とは執着された我に拠って心を高く掲げることである。我愛とは執着された我に深く耽着することである。
私は時々、この四煩悩は抽象名詞ではなく、日常生活で最も馴染み深い四つの声だと思う。誰かが私を批判すると、我癡は言う。「確かに傷つけられた私がいる。」我見は言う。「この傷ついた私は真実である。」我慢は言う。「彼はどうして私にこんなことができるのか。」我愛は言う。「私は自分を守らなければならない。私を損なわせてはならない。」そして意識は敷衍を始め、この四者のために証拠を集め、歴史を編み、反撃を設計し、同盟を探し、最後には一つの短い境遇を完全な生死劇場に変えてしまう。
これは、傷つけられた人が自分を守ってはならないという意味ではない。むしろ世俗においては当然、自分を守る必要がある。しかし仏法は私に区別を求める。保護は必ず我執の上に築かれなければならないのか。拒絶は必ず憎しみの上に築かれなければならないのか。境界線を作るには、まず相手を永遠の悪人にしなければならないのか。末那識が支配するとき、答えはたいてい肯定である。それは、恨まなければ離れられず、怒らなければ正義ではなく、自我に執着しなければ自分を守れないと思っている。修行とは、別の可能性を少しずつ発見することである。明晰でありながら憎まない。堅固でありながら自己を神聖化しない。離れながらも心の中で敵を繰り返し供養しない。
『成唯識論』は、染污意が外転識を常に雑染ならしめ、有情はこれによって生死輪廻を出離できないと言う。この一句によって私は、私を輪廻させるものは外境だけではなく、外境に対する内なる所有化であると理解した。境界そのものは来ては去る。しかし末那識はあらゆる境界を「私」の歴史として収編する。それは一言を私の傷にし、一度の失敗を私の身分にし、一度の成功を私の価値にし、他人の眼差しを私の存在証明にする。
修行しなければ、人は一生この弁護士のために働いているのかもしれない。外見上は事業、理想、信仰、学問があるように見えても、内面ではただ「私」の弁護を続けている。修行さえもそれの新たな材料になることがある。私は空を知っている。私は唯識を知っている。私は他人より醒めている。私は他人より慈悲深い。私は他人より執着しない。これこそ末那識の最も狡猾なところである。それは世間法によって我を養うこともできれば、仏法によって我を養うこともできる。
だから私はますます、本当の仏法の言葉は使用者自身を噛み返すものでなければならないと思う。私が空を語るなら、その空はまず私の執取に刺さらなければならない。私が唯識を語るなら、その唯識はまず私の分別を照らさなければならない。私が無我を語るなら、その無我はまず、無我の名のもとにある私の優越感を解体しなければならない。そうでなければ、仏法は末那識の新しい衣装にすぎない。
真如は最後の本体にされてはならない
私は以前、人がなぜ真如、仏性、本覚、清浄心といった言葉を好むのか、とてもよく理解できた。人が世間に生きることはあまりに不安である。身体は壊れ、関係は変わり、財は失われ、時代は転じ、記憶は曖昧になり、自分が信じていた観念さえ時間によって摩耗する。このような無常の中で、人は自然に不動のものを渇望する。仏法が真如を説けば、人は容易に真如をその不動のものだと想像する。
しかし『成唯識論』の真如に対する説き方は非常に慎重である。それは、真如もまた仮施設の名であると言う。無であると撥することを遮るために有と説く。有であると執することを遮るために空と説く。虚幻であると思わせないために実と説く。理が妄倒でないために真如と名づける。また、他宗のように色心などを離れて実常の法があり、それを真如と名づけるのではない、とも言う。これらの句は、人が真如の中に逃げ込もうとする道をほとんど塞いでいる。真如は色心諸法を離れた一つの実体ではない。神我に代わる永久主宰ではない。因果を逃れる安全地帯でもない。
真如が私によって本体にされるなら、それはすでに私によって汚染されている。私はそれを必要とし、所有し、自分の究極の拠り所にする。このような真如は、遍計所執を離れた円成実ではなく、最も荘厳な名をまとった遍計所執である。
私は、仏法が難しいのは、まさに一方で真如を説かなければならないからだと思う。そうでなければ人は断滅に落ちやすい。しかし他方で、人が真如を実体化することを絶えず防がなければならない。そうでなければ人はまた常見に落ちる。それが有と言うのは、無と撥することを遮るためである。空と言うのは、有と執することを遮るためである。実と言うのは、虚妄と思うことを遮るためである。真如と言うのは、顛倒しない法性を指すためである。もし私がその一辺だけをつかめば、その用心を誤解する。
これは中観の四重二諦を思い起こさせる。まず空によって有を破り、ついで非有非空によって空執を破り、さらに不二執を破り、最後には言亡慮絶さえも安住処にしてはならない。唯識は用語こそ異なるが、その精神も同じく厳格である。唯識と言うのは外境実有を遣るためである。しかし唯識を真実有として執すれば、それも法執となる。真如と言うのは二空所顕の法性を示すためである。しかし真如を色心の外にある実常法として執すれば、それはまた外道的本体の一種となる。
だから私が真如について語ろうとするなら、まず自分に問うべきである。私は執着を離れた後の法性を語っているのか。それとも人生に向き合わずに済む永遠の部屋を探しているのか。私は虚妄分別を破っているのか。それともより微細な自己慰めを築いているのか。本来清浄と言うとき、私は自分が今なお瞋恨を薫習していることを忘れていないか。不生不滅と言うとき、それを世俗における謝罪、修正、世話、行動から逃げるために使っていないか。
悪取空について、あるいは最も危険なのは仏法を信じないことではなく、仏法を誤用することである
私はよく考える。外道的な誤りは、時に仏法内部の誤用ほど恐ろしくない。仏法を信じない人は、せいぜいこの道を取らないだけである。仏法を誤用する人は、仏法によって自分の煩悩を加持することがある。貪る者は自在を語り、怒る者は正義を語り、愚かな者は不可思議を語り、慢心の者は高見を語り、逃避する者は空性を語る。こうして仏法の言葉は、かえって煩悩の鎧となる。
『成唯識論』には、特に警戒すべき一段がある。それは、「遣相空理」に依って第八識および一切法を撥無する者を批判する。その結果、染浄因果、知断証修がすべて非実となり、大邪見となると言う。また、もし一切法がみな実有でないなら、菩薩は生死を捨てるために菩提資糧を精勤修集すべきではない、とも述べる。これはまさに悪取空への批判である。空性が染浄因果を否定し、修行次第を否定し、菩薩資糧を否定するなら、それは般若ではなく邪見である。
この言葉には力がある。空性は修行を不要にしてはならないと告げている。もし一切が「空」によって取り消せるなら、菩薩はなぜ六度を修するのか。なぜ二障を断つのか。なぜ転依するのか。なぜ有情を利楽するのか。なぜ長い時劫の中で忍辱、精進、修定、修慧を行うのか。空性が怠惰へ導くなら、それは仏法の空ではない。仏法の空は、無所住の精進へ導くはずである。
私はこの道理を日常に置きたい。自分が過ちを犯した後に「すべて空だ」と言うなら、それは悪取空である。人を傷つけた後に「無我だ」と言うなら、それは悪取無我である。習気を修正しようとせずに「本来清浄だ」と言うなら、それは悪取本浄である。他人の痛苦に冷淡でありながら「それぞれ業力がある」と言うなら、それは悪取因果である。真の因果観とは、「それは彼の業だ」と冷淡に言うことではなく、「この因縁の中で、私は苦を減らすことができるか」と清醒に問うことである。
私が日常においてこれらの経論をどう用いたいか
経論がただ机の上に留まるなら、容易に優雅な無明を養う。私は『成唯識論』のいくつかの句を日常に入れ、ポケットに小さな鏡を何枚か入れておくようにしたい。
自分が傷つけられたと感じるとき、私は「我法は仮説による」と思い出す。これは傷を否定せよということではない。ただ、今この傷ついた私が、身体感受、記憶、言語、末那の我執、意識の敷衍によって共同で建立されていることを思い出させる。
自分が絶対に正しいと感じるとき、私は「唯識を真実有と執するなら、外境を執するのと同じく、これも法執である」と思い出す。これは、私の観念が仏法らしく見えても、別の執取でありうることを思い出させる。
旧習気に陥ったとき、私は「恒転して瀑流のごとし」と思い出す。これによって、一時の失敗に絶望しなくてよい。瀑流は向きを変えられるからである。また一時の清明に自満してもならない。瀑流にはなお旧勢があるからである。
空性を用いて逃げたくなるとき、私は『成唯識論』の悪取空批判を思い出す。もし私の空が、修しない、断じない、証しない、責任を負わない、慈悲を持たないものにするなら、それは空ではない。私の怠惰が袈裟を着ているのである。
世間の不義に向き合うとき、私は「心が雑染であるがゆえに有情も雑染であり、心が清浄であるがゆえに有情も清浄である」と思い出す。これは内心だけを修して外界を顧みるなという意味ではない。もし雑染の心で雑染の境に対抗するなら、世界にはただ一つ雑染が増えるだけだと教えているのである。清浄心は軟弱ではない。瞋恨を行動の主人にしないことである。
最後に、私はこのように自らを励ましたい。
境界が現起したとき、急いでそれを空と呼ばない。
まず、それがどのように現起し、どのように私に感じられ、どのように私に命名され、どのように旧い物語に組み込まれ、どのように末那識によって我として摂取され、どのように新たな種子として熏じられようとしているかを見る。
その後で、それを空と観る。
それが因縁によって生じると観る。それが無自性であると観る。それが幻のごとく夢のごとくであると観る。我と法がみな仮施設であると観る。この心がもし再び取らなければ、この一刻を次の輪廻の燃料にしなくてもよいと観る。
そして最後に、なお行動する。
言うべきことを言い、止めるべきことを止め、離れるべきものを離れ、引き受けるべきものを引き受け、修正すべきことを修正し、慈悲すべきところに慈悲する。ただ行動の後、結果を私の成敗として収編しない。正義を私の偉大さとして収編しない。修行を私の清高さとして収編しない。仏法を末那識の新しい宮殿として収編しない。
そうして初めて、空性は逃避のようでなくなり、唯識は自己閉鎖のようでなくなり、真如は本体的慰めのようでなくなり、無我は責任回避のようでなくなる。
もし仏法が本当に鏡であるなら、私がどのように逃げているかを照らしてほしい。
もし仏法が本当に薬であるなら、私の最も深い我執をまず治してほしい。
もし仏法が本当に筏であるなら、私を世に入りながら世に溺れず、相を離れながら衆生を離れないように運んでほしい。
今の私が理解できる修行とは、おそらくただこの程度である。
世俗において、因果から逃げない。
勝義において、自性を立てない。
唯識において、心がいかに世界を造るかを観察する。
中観において、この観察さえも「私の智慧」として執着しない。
もしある日、私が「一切皆空」と言うとき、心の中でなお具体的に苦しむ人に対して柔らかさを生じることができるなら。
もしある日、私が「無我」と言うとき、なお誠実に自分の過ちを認めることができるなら。
もしある日、私が「唯識」と言うとき、なお他人の現実的境遇を軽視しないなら。
もしある日、私が「真如」と言うとき、なお皿を洗い、謝り、働き、病人を世話し、不義を止め、果報を受けることを願えるなら。
その時、私はおそらく少しだけ理解したのだろう。仏法は私に人生を離れよと言っているのではなく、無明の仕方で人生を生きることをやめよと言っているのだ、と。



